推理小説
Seven Mysteries in the Snowlight
全七章・完結
第一章
男は、はじめ、自分がどこにいるのかわからなかった。
暗かった。
目を開けているのか、閉じているのかも曖昧だった。瞼の裏に浮かぶ黒と、外側にある黒の区別がつかない。鼻の奥に、すえた食品の匂いがこびりついていた。古くなった油。濡れた段ボール。乾ききらない布巾。肉か魚かも判別できない、甘く腐りかけた匂い。
息を吸うたび、その匂いが肺の奥で冷たく固まる。
寒い。
そう思った瞬間、全身が遅れて震えた。
いや、震えているのかどうかもわからなかった。体の感覚が、ところどころ切れている。頬が床に押しつけられていた。硬く、濡れている。氷の上に顔を置いているみたいだった。口の中には血の味がした。舌がうまく動かない。唇の端が切れているのか、呼吸のたびに薄く痛んだ。
肩がねじれ、腕の付け根が痺れている。うつ伏せのまま、身動きが取れない。膝も曲がったまま動かせない。
少し動こうとしただけで、ふくらはぎの奥に鈍い痛みが走った。
飲みすぎたのか。
そう思おうとした。
異様にくる酒だった。最初の一杯から、喉の奥に妙な甘さが残った。胃が重くなって、視界の縁が揺れて、誰かの声が遠くなった。
誰か。
誰だった。
思い出そうとすると、頭の奥が白く濁った。名前も、顔も、店の明かりも、全部が水に沈んだみたいに遠い。
とにかく寒い、、
皮膚が痛い。
冷たいというより、焼けるようだった。耳の縁、頬、爪の下、足首。自分の体の端から、ゆっくり何かが剥がれていく。
声を出そうとした。
喉が鳴っただけだった。
誰か、という音にもならない。舌が重い。口の中が乾いているのに、唾液だけが粘ついて、喉に絡んだ。咳き込もうとしても、体勢が悪くてうまく吐き出せない。
どこだ、ここは。
狭い。
どれくらい経っただろう。
時間の感覚がなくなっていく。
1分なのか、1時間なのかわからない。暗闇はずっと同じ顔をしている。ときどき遠くで低い機械音のようなものが鳴った。唸るような、震えるような音。それが鳴るたびに、空気がさらに冷たくなる気がした。
眠い。
その言葉が浮かんだ時、男は少しだけ安心した。
眠ればいい。
眠って、起きればいい。
指先があるはずの場所が、もう自分のものではなくなっていた。足の感覚もない。痛みだけが、痛みという形を失って、全身に薄く広がっていく。
暗闇の中で、ふいに小さな光が見えた気がした。
店の看板の赤。タクシーのテールランプ。コンビニの白い明かり。
それから、寒そうに立っていた少女の肩。
あれは誰、、だったか、、
男は思い出せなかった。
いや、思い出したくなかったのかもしれない。
暗闇の中で、光はすぐに消えた。
残ったのは、すえた食品の匂いと、喉の奥に残る甘い酒の味と、もう自分のものではない体だけだった。
男は最後に、扉の向こうで誰かが歩いたような音を聞いた。
助かった、と思った。
けれど、その足音は近づいてこなかった。
やがて、寒さも、痛みも、匂いも、遠くなった。
暗闇だけが残った。
祥桜大学は、地元ではそれなりに名の知れた私立大学だ。
古い赤煉瓦の講義棟と、ガラス張りの新校舎が同じ敷地の中に並び、鬱蒼と生い茂る木々、その中に佇む時計塔はいつも少しだけ曇って見えた。
ちゃんとした大学。
保護者がそう言いたくなる程度には、歴史があり、名前があり、手入れされた芝生があった。
けれど10月の雨の日、その“ちゃんとした大学”の裏側から、男の死体が見つかった。
祥桜大学が崩れ始めたのは、その日からだった。
最初に騒ぎに気づいたのは、2限が終わって中央食堂へ向かう途中だった。
食堂前の広場に、妙な人だかりができていた。傘を差したまま立ち止まった学生たちが、スマホを胸の高さに構えている。雨粒が画面に落ちても、誰も拭おうとしなかった。
「なに、事故?」
隣で高槻蓮が、あくび混じりに言った。
伸びっぱなしの髪に、片方だけずり落ちたリュックの肩紐。人だかりを見ても、眠そうな顔はほとんど変わらない。
「わかんない」
私はそう答えながら、人だかりの向こうを見た。
中央食堂の裏手へ続く通路が、黄色いテープで塞がれている。警備員が数人、傘の列を押し戻すように学生たちを遠ざけていた。その奥、搬入口のあたりに、制服の警察官が見えた。
警察?
ただ事ではなさそうだ。
そう思った時にはもう、体が前に傾いていた。ぐっと足に力が入る。
横から腕を掴まれた。
「椎名」
はたと我に返る。
「野次馬根性丸見え」
「やーねー、野次馬なんてそんな、、」
「じゃあ何だ、その目は」
高槻が、心底呆れたという顔をした。ひどい言い方だったが、否定はできなかった。
私、椎名真尋は昔から、気になったものをそのままにしておくのが苦手だった。検索窓に言葉を入れる。タグを辿る。投稿時間を見る。画像の端に写った看板を拡大する。そういうことをしているうちに、いつの間にか知らない人の人生の輪郭まで見えてしまうことがある。
良い趣味ではない。
わかっている。
でも、見えてしまうものは見えてしまう。
高槻は、そういう私をよく知っている。
なんてたって腐れ縁に近い幼馴染だ。
「食堂、閉まるかな」
人だかりを眺めながら、高槻がボソッと言う。
「そこ?」
「昼飯は重要」
「人が死んだかもしれないのに?」
「まだ死んだって決まってないだろ」
高槻がそう言った横を、傘を寄せ合った女の子たちがすれ違っていく。
「死体だって」
小さな声だった。でも、雨音の中で妙にはっきり聞こえた。
「え、まじ?」
「食堂の冷凍庫から、男の人が出てきたって」
噂が膨らむのは、驚くほど速かった。
昼休みが終わる頃には、中央食堂の冷凍庫から見つかった男は、年齢も職業も死因も、いくつものバージョンを持っていた。
食堂の業者らしい。
いや、学生の父親らしい。
借金取りらしい。
半分凍っていたらしい。
口に何か詰められていたらしい。
マッチ箱を握っていたらしい。
「マッチ、、箱?」
空き教室の窓際の席で、文庫本を読んでいた白瀬凛が顔を上げた。
白瀬は文学部の同級生だ。必修の授業で隣の席になってから、お昼を一緒に食べる仲になった。
物静かで、いつも眠そうなタレ目に重めの短いボブが、彼女の白い肌を艶やかに際立たせる。それなのに彼女の放つ言葉や感性は癖がある。
「噂だけどね」
私はスマホを伏せた。
「冷凍庫から出てきた男のそばに、小さい箱が落ちてたって。最初は煙草かと思ったけど、マッチ箱だったって書いてる人がいる」
「今どきマッチ箱?」
高槻が、本日3本目のコンビニの焼きそばパンを頬張りながら言う。
「そう。マッチ箱」
「冷凍庫にマッチね〜、、」
興味があるのかないのか、よくわからない声だった。高槻はそのまま、焼きそばパンをもう一口かじった。
白瀬は黙っていた。
「どうかした?」
何となく気になって声をかける。
「マッチ売りの少女」
「え?」
とっぴな単語に、私は思わず聞き返した。
「マッチを持ったまま、飢えて凍え死ぬ話」
「だから、、、似てるってこと?」
少し飛んだ発想に思えて聞き返すと、白瀬はこくんと頷いた。
「さすがにそれは〜こじつけに感じるけど?」
そう言う私に返ってきた「たぶんね」という白瀬の声は、その言葉を信じていなかった。
最終コマの後、私は食堂の裏へ向かった。
雨はほとんど止んでいた。正面の広場は避けて、食堂の脇の細い通路を抜ける。裏の駐輪場へ続く近道で、学生が通っても不自然じゃない道だ。
通路を抜けると、駐輪場に出た。
その向こうが、食堂の裏手だった。搬入口のシャッターは下り、脇の業者用の扉には立入禁止の紙が貼られている。黄色いテープが、駐輪場と搬入口のあいだの通路を横切って張られていた。テープの手前には、警備員が1人、所在なげに立っている。
私は自分の自転車を探すふりをして、テープにいちばん近い列まで歩いた。
テープの向こうは、学生が普段来る場所ではない。
濡れた段ボール。空のビールケース。排水溝に溜まった水。大型のゴミ箱。風向きが変わると、油の匂いが届いた。
そして、搬入口の脇に、厨房に続く銀色の壁。
外部の男が、どうしてここに。
私はその壁を見ながら思った。
偶然入れる場所ではない。
酔って迷い込むにも、学生が悪ふざけで押し込むにも、冷凍庫は奥まりすぎている。搬入口までの動線を知っていなければ、ここには来ない。
警備員の視線を感じて、私はスマホを見るふりをした。
、、写真はやめておこう。
代わりに、頭の中で位置を覚える。
搬入口。業者用通路。冷凍庫。防犯カメラ。学生が近づける範囲。雨の日の人通り。
まだ何もわからない。
でも、ひとつだけ思った。
こんな辺鄙な場所を。
誰かは、わざわざ選んだ。
夜、大学から公式メールが届いた。
中央食堂設備内における事案について。
件名は、そうなっていた。
本文には、警察の捜査に協力していること、学生は不確かな情報を拡散しないこと、当面の間、中央食堂の一部営業を停止することが書かれていた。
死体という言葉はなかった。
殺人という言葉もなかった。
大学は、できるだけ何も起きていないような顔をしていた。
私はベッドの上でスマホを握ったまま、検索窓に言葉を入れた。
祥桜大学 冷凍庫。
何も出ない。
祥桜大学 食堂 事件。
まだ何も出ない。
中央食堂 搬入口。
関係のない投稿ばかり。
私はため息をついて、スマホを伏せた。
冷たい床にうつ伏せに倒れていたという、まだ顔も名前も知らない男のことを思った。
マッチ売りの少女。
給食室の冷凍庫。
すえた食品の匂い。
暗い箱の中。
偶然だ。
そう思うには、少しだけ材料が多すぎた。
翌朝、中央食堂前の広場には、いつも通り学生が行き交っていた。
閉じたシャッターの前で、立ち止まる人はいない。チャイムが鳴り、講義が始まり、レポートの締切は1日近づいた。
人が死んでも、大学は止まらない。
それが少し怖かった。
昼休み、私たちは昨日と同じ空き教室にいた。食堂はまだ使えない。
高槻は今日もコンビニの焼きそばパンを広げ、白瀬は文庫本を開いている。2人とも、昨日のことを話す気配はなかった。
「昨日さ〜食堂の裏、見てきちゃった」
言った瞬間、止まらなくなった。搬入口の位置。テープが張られていた範囲。シャッターの脇の、厨房に続く銀色の壁。防犯カメラの位置。警備員は1人だったこと。表の広場からは何も見えないこと。朝からずっと喉の奥でつかえていたものが、順番も整えないまま口から出ていく。
高槻はパンをかじりながら聞いていた。話し終えると、口の中のものを飲み込んでから言った。
「外の人間がふらっと入れる感じじゃないな」
「うん」
「業者なら?」
「可能性はある。でも、まだ被害者が誰かわからない」
「大学の人間ってこともある」
私は頷きかけて、やめた。
まだ早い。
推理というには、材料が足りなかった。
白瀬はずっと黙っていた。
手元の文庫本を開いたまま、ページはめくられていない。私と高槻が施設の話をしている間、彼女は一度も口を挟まなかった。
やがて、小さな声で言った。
「もし、童話だとしたら」
「うん」
「マッチ売りの少女は、少女が死ぬ話だよね」
「そうだね」
「でも、今回死んだのは男の人」
高槻が顔を上げた。
白瀬は続ける。
「だから、、」
「だから?」
「童話そのままってわけでもないのかも、、?」
「と、いうと、、?」
私が聞くと、白瀬は少しだけ迷った。文庫本の縁を、指でなぞる。
「書き換えてる」
その言葉は、空き教室の静けさの中で、妙にはっきり響いた。
「凍えるべきだったのは、少女じゃないって」
その日の午後、雨がまた降り始めた。
私は講義棟の窓から中央食堂を見下ろしていた。
広場を歩く学生たちは、傘の下で顔を隠している。食堂の裏手は見えない。見えないところで、昨日、人が死んだ。
まだ名前も知らない男。
まだ理由もわからない死。
でも、私の中には、もうひとつの疑問が生まれていた。
なぜ、あの場所だったのか。
なぜ、マッチだったのか。
そして、もしこれが本当に物語の書き換えなのだとしたら。
誰が、なんのために、、?
脳内が支配されて、この謎を解き明かしたくてうずうずする。
窓ガラスに、自分の顔が薄く映った。
その向こうで、雨に濡れた祥桜大学が、昨日までとは違う場所のように見えた。
ちゃんとした大学。
その言葉の表面に、小さな罅が入っている。
私は、その罅の奥を覗き込みたいと思ってしまった。
たぶん、それが間違いの始まりだった。
第二章
体育館は、祥桜大学の敷地のいちばん奥にあった。
赤煉瓦の講義棟やガラス張りの新校舎から見ると、まるで時間に置いていかれた建物だった。外壁は雨を吸って灰色に沈み、窓の内側には古いカーテンが垂れている。正面玄関には「耐震工事準備中につき立入禁止」と書かれた白い紙が貼られていたが、その紙自体がもう何度も雨に濡れて、端が丸まっていた。
2つ目の死体が見つかったのは、その体育館の地下倉庫だった。
発見したのは、用具の搬出に来た施設課の職員だという。倉庫の奥、古い跳び箱と折りたたみ椅子の間に、女が横たわっていた。赤いヒールが片方だけ、少し離れた床に転がっていたらしい。
両足がなかった、という噂は、昼前にはもう大学中を歩いていた。
図書館の自習席に、3人で集まっていた。高槻の前にはノートパソコンが開かれている。画面には、検索結果と古い掲示板のログがいくつも重なっていた。私はスマホで、大学名のタグを追っていた。更新は、さっきから止まらない。体育館、赤いヒール、女の人、足、やばい。断片だけが雨に流される落ち葉みたいにタイムラインを埋めていく。
「……赤い靴」
その断片をしばらく目で追っていた白瀬が、ひとりごとみたいに、ゆっくりと言った。
「赤い靴って、童話の?」
私が聞くと、白瀬は小さく頷いた。
「カレンが赤い靴を履いて、踊り続ける話」白瀬は静かに言った。「止まれなくなって、最後は足を切ってもらう」
白瀬は今日も静かだった。けれど、静かさの底がいつもより少し硬い。第1の事件のあと、彼女は「書き換えてる」と言った。その言葉が、私の中にずっと残っている。
「嫌な話」
私が言うと、白瀬は頷いた。
「足を切るところが?」高槻が聞いた。
「それもだけど」
白瀬はノートの端を指でなぞった。
「赤い靴を履いたことが、そんなに悪いことみたいに扱われるところ」
私は返事をしなかった。
第1の事件では、マッチ箱。冷凍庫。凍死。マッチ売りの少女。
第2の事件では、赤いヒール。体育館。失われた足。赤い靴。
偶然、と言うには、今度はあまりにも形が整いすぎていた。
被害者の名前が出たのは、その日の午後だった。
間宮翔子。
34歳。繁華街で複数の店と関わり、女の子の紹介やスカウトをしていた女。表向きはイベント関連の人材紹介業。
私は講義をひとつ飛ばして、図書館の端の席で彼女のSNSを掘った。投稿を遡ると、きれいな言葉の下に、もっと湿ったものが見えてくる。
間宮翔子のアカウントは、最初は華やかだった。シャンパンのグラス、夜景、赤いネイル、ブランドバッグ。女の子たちの後ろ姿。顔は映っていないのに、細い肩や脚だけがやけに強調されている写真。
今夜もありがとう🥂✨ 学生の子多めで、みんな可愛かった〜 今月まだ枠あるので、気になる子はDMしてね💌 #イベントスタッフ募集 #夜景 #シャンパン
止まってる暇ない子、連絡して💌 走り続けてる子が、いちばんきれい✨ #赤ネイル #週末
赤履いてる子、やっぱ強い👠 今日のベストドレッサー❤️ #赤いヒール #イベント終わり
なぜだか、背中がぞわぞわした。
投稿は、どれも明るい。絵文字も、ハートも、ありふれた言葉ばかりだ。
なのに、読んでいると、指先から少しずつ温度が抜けていく。
「走り続けてる子が、いちばんきれい」
「赤履いてる子、やっぱ強い」
褒めている形をしているのに、褒め言葉の底に、細い糸みたいなものが張っているような、そんな感覚を覚えた。
私は画像を拡大した。
背景に、祥桜大学前の坂道が写っているものがある。体育館近くのコンビニの看板。学祭期間中の人混み。大学の銀杏並木を、雨上がりの夕方に撮った写真。
投稿を遡るほど、同じ場所が何度も現れた。
今日は祥桜の近くで打ち合わせ☕ 学祭前でキャンパスがにぎやか〜 若いエネルギーもらった✨ #祥桜大学 #学祭準備
構内の銀杏、きれいに色づいてた🍂 ちょっと寄り道して、気になってた子とお茶💌 #銀杏並木 #放課後
校門の外から撮った角度ではない。門をくぐって、構内に入っている。
私は画面から目を離せなかった。
間宮翔子は、この大学の周りを歩いていたのではない。
門の外から、校舎を眺めていたのでもない。
私は画面を閉じかけて、やめた。
#放課後。#気になってた子。
軽い言葉の一つひとつが、急に重みを持ちはじめる。
彼女は、この大学の中で、誰かを選んでいた。
夕方、私は体育館へ行った。
高槻には「またか」と言われた。白瀬には「ひとりでは行かないで」と言われた。だから、今回は高槻がついてきた。
「俺が行くとは言ってない」
「来てるじゃん」
「見張り。お前が地下に突っ込まないように」
体育館の前は、すでに立入禁止のテープで囲われていた。雨は止んでいたが、地面には水たまりが残っている。体育館の壁沿いに回ると、地下へ降りる外階段があった。鉄の手すりは赤茶け、階段の隅には濡れた落ち葉が溜まっている。
「ここ、学生が普段使う場所じゃない」
私は低く言った。
「だろうな」
「でも、完全に知らない人が連れてこられる場所でもない」
高槻は階段の下を覗き込んだ。
「第1の冷凍庫も、ここの地下も、大学の裏側だ。表からは見えないけど、知ってる人間には使える場所」
「犯人は大学の中を知っている」
自分で言って、胃の奥が重くなった。
高槻は珍しく茶化さなかった。
「そうだな」
高槻はそう答えて、雨に濡れた体育館を見上げた。
「……椎名、子どもの頃、学校の怪談ってあっただろ」
唐突に聞こえて、私は彼の横顔を見た。
「学校の怪談?」
「給食室とか、理科室とか、夜の体育館とか。誰でも一度は聞かされる、あの手の話」
「あったけど。それが?」
「ああいうのは、基本、小中学校のものなんだ」
高槻は言った。
「大学には基本ない。祥桜大学の七不思議なんて、聞いたことないだろ」
私は頷いた。言われてみれば、その通りだった。この大学に、怪談なんてない。
「なのに」
高槻はスマホを取り出し、画面を私に向けた。古いまとめサイトの一部だった。
夜の体育館で、誰もいないのに靴音がする。
「第2の現場は、体育館。子どもの頃の学校怪談でいう、夜の体育館の靴音だ」
「え、でも冷凍庫は?」
「給食室の冷凍庫。あれも、学校怪談にある」
雨の音が、少しだけ近くなった気がした。
「体育館の靴音のほうは、定番中の定番だ。珍しくもなんともない。でも、冷凍庫の怪談は違う。靴音みたいにどこにでもある話じゃない。むしろ、珍しい部類だ」
高槻の声が、少し低くなった。
「ありふれた怪談と、珍しい怪談。種類のちがうものが、子どもの学校から大学に持ち込まれて、順番に並び始めてる。よくあるものでも、そうやって並び出すと、話が変わる」
高槻はそこまで言って、ふっと息を吐いた。
「……まだ決めつけるなよ。怪談はどれも似てるから、繋げようと思えば、いくらでも繋がってしまう」
私に言っているようで、自分に言い聞かせているようだった。
「でも、調べるんでしょ?」
「調べる」
「ほんと、あんたって昔から怪談とかオカルトってなると、スイッチ入っちゃうよね〜」
「お前にだけは言われたくないけどな」
彼はそう言って、少し黙った。雨に濡れた体育館の壁を、何かを探すみたいに見上げている。
「どうしたの」
「……冷凍庫の次に、体育館」
高槻は低く言った。
「この並び、どこかで見た気がする」
「学校怪談なんて、どこも似たようなものでしょ」
「似てるんじゃない」彼は首を振った。「順番ごと、同じなんだ」
私は黙った。
「七不思議って、普通はもっとバラバラなんだよ」
高槻は続けた。
「学校ごとに違うし、語る人によっても入れ替わる。花子さん、二宮金次郎像、夜中に動く人体模型……定番はあっても、1個目から7個目まできっちり順番が決まってる方が、本当は珍しい」
「でも、高槻はそういうのを見たことがある」
「1回だけ」
彼の声が、少しだけ硬くなった。
「やけに整理された七不思議だった。番号を振って、順番に語られてた。珍しいから、覚えてる。ただ……どこの学校だったか、それが思い出せない」
高槻は後頭部をぐしゃっと握りながら、スマホを食い入るように見つめていた。
「帰る。ちょっと掘ってみる」
それだけ言って、高槻は早足で歩き出した。私のことなど、もう目に入っていないみたいだった。
冷凍庫 靴音 水槽 七不思議
給食室 体育館 学校怪談
まだ決定打なし
夜中の2時、高槻から届いた電報のようなメッセ。少し遅れて、もう1通。
ただ、旧い学校怪談の順番としてはあり得る
ああ〜、ハマってんな〜。
調べる手が止まらなくなっているであろう高槻を思い浮かべながら、私は床に広げた模造紙に目を戻した。
こっちも人のことは言えない。マジックで書き散らした字が、もう半分近くを埋めている。冷凍庫の男。マッチ箱。体育館。赤いヒール。間宮翔子。
その横に、白瀬の言葉を借りて童話の名前を書く。マッチ売りの少女。赤い靴。さらにその横には、高槻のメッセージから。給食室の冷凍庫。体育館の靴音。
3つの列が、揃った。
現場。童話。怪談。
ばらばらに見えていたものが、線を引く前から、もう形になり始めている。
「書き換えてる」
白瀬が言った言葉が、脳裏をよぎる。凍えるべきだったのは、少女じゃない――そう、彼女は言っていた。
もし本当に、童話が書き換えられているのだとしたら。
赤い靴で踊らされ、足を失うのは、靴を履いた少女のはずだった。
でも、体育館で足をなくしていたのは、間宮翔子。
踊った少女ではなく、踊らせた側の人間。
女の子たちに赤い靴を履かせて、止まれなくしていた人。
間宮翔子は、赤い靴ってこと?
間宮翔子の名前を、マジックで丸く囲む。
模造紙の上で、3つの列はきれいに揃っている。
気づいたら、余白に丸をひとつ描いていた。
その丸に入る名前を、私は知りたかった。マッチ箱を置いたのは誰か。赤いヒールを片方だけ残したのは誰か。冷凍庫と体育館を選んだのは、どんな人間か。
2つの名前のあいだに、まだ見えない線がある。それを辿れば、この丸に行き着く。
はたと、手が止まる。
人が死んでいる。2人も。なのに私は、殺した人間の顔を、胸を躍らせて想像している。
最低だ、と思った。
思ったのに、マジックを置くことができなかった。
第三章
彼女が相談窓口の扉を叩いたのは、3度目の正直だった。
1度目は、廊下の手前で引き返した。
2度目は、扉の前まで行って、中から笑い声が聞こえて、やめた。
3度目は、もう限界だった。
学生支援課、相談窓口。扉には、優しい字のポスターが貼ってある。安心して相談してください。秘密は厳守します。
中にいた職員は、柔らかい声の人だった。椅子を勧めてくれて、温かいお茶を出してくれて、うん、うん、と頷きながら聞いてくれた。
彼女は、全部話した。
ゼミの教授のこと。2人きりの研究室。閉められた扉。肩に置かれた手。評価、推薦、進路。言うことを聞かないなら、という言葉の、言われていないのに聞こえる続き。
話し終えた時、彼女は少しだけ軽くなった気がした。
言えた。
やっと、言えた。
職員は、しばらく黙ってから言った。
「つらかったですね」
それから、こう続けた。
「ただ……証拠のようなものは、ありますか」
録音。メール。目撃者。
何もなかった。あるわけがなかった。2人きりの研究室で、何を録音すればよかったのか。
「そうですか」
職員は、困ったように微笑んだ。
「それだと、正式な手続きに乗せるのは、少し難しいかもしれません。
先生のお立場もありますし、
大学としても……
大ごとにして、あなたが嫌な思いをするのは本意ではないので」
大ごと、という言葉が、胸の底に落ちた。自分に起きたことは、大ごとにしてはいけない種類のことらしい。
「一度、先生にも、それとなく確認してみますね」
血の気が引いた。
先生に。あの人に。言うのか。
「それは――やめてください」
声が震えた。
言えば、どうなるかわかっていた。
だから今日まで、誰にも言えなかったのだ。
「大丈夫ですよ」
職員は、安心させるように微笑んだ。
「あくまで、それとなくですから。
あなたの名前は出しません」
名前は出さない。それとなく。
この人は、本気でそう言っているのだろうか?
名前を出さなければ、先生は気づかない。
本当にそう思っているのだろうか?
職員は湯呑みを下げた。面談は、30分で終わった。
帰り道、彼女は何度も、秘密は厳守します、というポスターの文字を思い出した。思い出すたびに、大丈夫だと自分に言い聞かせた。言い聞かせなければ、立っていられなかった。
1週間、何も起きなかった。
8日目、ゼミが終わったあと、教授が彼女を呼び止めた。廊下の真ん中で、誰にでも聞こえる声で。
「君、支援課に何か言ったんだって?」
笑っていた。
それから、少しだけ首を傾げた。
「残念だなあ。君には期待していたのに」
その言葉の意味がわかったのは、2週間後だった。
最初に届いたのは、インターン先からのメールだった。
教授の推薦で決まっていた、出版社の夏季インターン。ゼミの中で、選ばれたのは彼女1人だった。
「諸般の事情により、今回の受け入れは見送らせていただくこととなりました」
次は、特待生の継続審査の結果だった。
授業料の半額免除。1年生の頃から一度も落とさなかった成績で、ずっと守ってきたもの。
継続不可。
理由の欄には、「研究活動への取り組み状況を総合的に勘案し」とだけあった。
その「取り組み状況」を評価したのが誰なのかは、考えるまでもなかった。
秋の学会の共同発表者からも、彼女の名前が消えた。データを集めたのは、彼女だったのに。
両手で泡を掬うようだったと感じる。
インターン。特待生。学会。今までの頑張りも、その先に見ていた明るい未来も。
指の間から、音もなくこぼれていった。
推薦状も、所見欄も、名簿も、最初からあの人の机の上で決まるものだった。
彼女の手の中にあったことなど、一度もなかったのだ。
扉が閉まるたびに、彼女は数えていた。あと1年。あと半年。
黙ってさえいれば、その数は減っていくはずだった。
たった一度、口にしただけで、泡のように消えた。
継続不可、の4文字の
秋になって、ゼミの席がひとつ空いた。誰も、その席のことを口にしなかった。
彼女の声を、もう誰も聞いていない。
聞かなかったのと、同じことになった。
高槻蓮は、3日間、ほとんど寝ていなかった。
机の上には、印刷した掲示板のログの他に、図書館で複写してきた地方紙の夕刊が何枚も重なっている。20年前の夏休み特集「わが町のこわい話」。小学校のPTA新聞。市の広報の片隅の投書欄。子どもの頃に読んだポプラ社の『学校の怪談』文庫も、実家から送ってもらった。巻末の「七不思議通信」に、全国の学校の七不思議が載っている。
壁の付箋は、冷凍庫、靴音、の2枚から増えていなかった。
順番の揃った七不思議。
それを見た記憶はある。でも、どこで見たのかが出てこない。
自分で立てたオカルト板のスレッドに目を向ける。
1つ目が給食室の冷凍庫から始まる学校の七不思議知ってるやついる?
3日で、レスは9つ。
半分は荒らしで、残りはばらばらだった。
うちは花子さんと二宮金次郎と人体模型と13階段だったなー
給食室は「おばさんが出る」だった。冷凍庫は聞いたことない
体育館は夜中にボールつく音ってやつだろ。それはどこにでもある
ベートーベンの目が動くのと石膏像が泣くのは全国共通
昔、市内の学校怪談を番号ふってまとめてた個人サイトがあった気がする。とっくに閉鎖してるけど
↑市ってどこ
市の名前は、書かれなかった。
高槻は、その個人サイトを探した。普通に検索しても出ない。閉鎖したサイトでも、昔のページを丸ごと保存しているウェブ魚拓のサービスがある。そこに、思いつく限りのサイト名を手当たり次第に入れていく。
見つかったのは、深夜零時を回ってからだった。
「芦見市の学校のこわい話」
芦見市。
この大学がある市だ。
ページは半分壊れていた。背景画像は死に、文字化けした行が続く。それでも、校名を伏せた学校ごとの七不思議が、番号つきで並んでいるのは読めた。
そのうちのひとつ。
1 給食室の冷凍庫。
2 体育館の靴音。
3 画像。リンク切れ。
高槻は、切れた画像のURLを見た。ファイル名の末尾に、mizu、とあった。
「水ねー」
水にまつわる怪談なら、いくらでもある。水槽、プール、トイレ、手洗い場。
3つ目、たぶん水
それ以上はまだ
深夜1時。
高槻は、さっきのレスを、そのまま椎名にも送る。
送信済みの文字を、しばらく見ていた。
既読はつかない。
寝ているのだろう。
画面を伏せ、冷めた緑茶を飲み干した。
高槻は付箋を1枚剥がし、水、とだけ書いて、2枚の隣に貼った。
答え合わせは、翌朝、向こうから来た。
翌朝、7時過ぎ。高槻からの着信で目が覚めた。
「理化学館から、水が出てる」
寝ていない声だった。
「警備員が見つけて、施設課を呼んでる。俺は今、裏の通用口のとこ。来い」
「なんで、こんな時間にそこにいるの」
「寝られなかったから」
一拍、間があった。
「図書館の自習室、試験前だけ24時間開放になるだろ。あそこで6時まで粘ってた。出てきたら、隣の理化学館の通用口の下が濡れてた」
言われてみれば、今週は前期試験の1週間前だった。
「5分で行く」
「自転車で来い。」
「言われなくても!」
1限まで、1時間以上あった。私は着替えて、自転車に乗った。
理化学館は、キャンパスの北の端に建つ4階建ての古い棟だ。
教職課程の理科の実験や、心理学の実験に使われていて、屋上には白い天体観測ドームが載っている。文系の学生の大半は、4年間で一度も中に入らずに卒業する。
その裏の通用口から、細い水の筋が側溝まで伸びていた。
通用口の前に、高槻が立っていた。足元には、施設課の軽トラ。作業着の職員が2人、モップとバケツを持って中へ入っていく。
「水道管ですかね」
職員の1人が、もう1人に言うのが聞こえた。
「実験室だからなあ。誰かが流しを出しっぱなしにしたんだろ」
高槻は、職員の背中を見ていた。
「違うと思う」
私が自転車を停めるのも待たずに、高槻は言った。
「出しっぱなしなら、流しから溢れる。流しは、廊下の手前の実験室に並んでる。でも水は、手前からじゃなくて、奥から来てる」
1階の廊下は、じっとりと湿った空気で満ちていた。
薬品と、古い木の床と、かすかな黴の匂い。
蛍光灯が1本、間遠に瞬いている。足を踏み出すたびに、靴底がきゅっと鳴った。
廊下の手前の生物学実験室から、職員の1人が顔を出した。こちらに気づいて、しっしっと追い払うように手を振る。
「学生さん、ここは入っちゃだめだよ」
「すみません、実習のレポートを置き忘れて」
私が言うと、職員は実験室の中を振り返って、少し考えるように首を傾げた。
「ああ、実験室なら、もう水は出したから。入ってもいいよ。床が滑るから、気をつけて」
「ありがとうございます」
高槻は、職員の話を聞いていなかった。
実験室の中の、流しを見ていた。
ステンレスの流しが、壁際に4つ並んでいる。どれも、乾いていた。蛇口の下に、水滴ひとつない。
それから、廊下の床を見た。
水は、実験室の扉の下からではなく、その奥、廊下の突き当たりから流れてきていた。実験室の前の床は、もうほとんど乾いている。なのに突き当たりの床だけが、まだ濡れて光っていた。
「あそこ、何ですか」
高槻が指す。
「準備室。標本とか、古い器具とか。今は物置だよ。鍵は事務室にしかなくてね」
「水は、そこから出てます」
職員が、初めて高槻の顔を見た。
「流しは全部乾いてます。出しっぱなしじゃない。実験室の床は乾き始めてるけど、準備室の扉の下は、まだ濡れてる。傾斜で流れてきてるだけで、元は向こうです」
職員たちは顔を見合わせた。1人がしゃがんで、突き当たりの床に手を当てる。
「……本当だ」
準備室の扉には、鍵がかかっていた。
事務室に連絡して、誰かが鍵を持ってくるまで10分かかると言われた。
高槻は、その10分を待たなかった。
準備室の扉は古い木の扉で、蝶番が錆びていた。高槻は肩を当てて、2度、3度と押した。職員が止めるより先に、扉は内側へ開いた。
生臭い、水槽の底の匂いがした。
暗い準備室の床一面に、水が広がっていた。
壁際の棚に、空の水槽がいくつも伏せて並んでいる。前期の実習が終わって、メダカは引き取られ、水槽は乾かして片づけてあったはずだった。
その中の1つだけが、床に転がって、割れていた。
厚い硝子の破片が、廊下から差す光を反射していた。
そして、その向こうに、人が倒れていた。
スーツ姿の男だった。横向きに倒れて、顔の半分が水に浸かっている。口の端から顎へ、細い赤い線が伝っていた。水面に、職員証が浮いていた。
「柏木さん!」
職員の1人が叫んだ。
高槻はもう、水の中に踏み込んでいた。男の肩を掴んで、顔を水から引き上げる。
「息してる」
高槻が言った。
「かすかだけど、してる。救急車」
私は電話をかけた。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
男の唇が動いた。何か言おうとしている。でも、音は出なかった。喉から、空気が漏れる音だけがした。
救急車のサイレンが近づいてくるまで、高槻は柏木の顔を水から離さなかった。
その間、高槻の目は、一度だけ棚に向いた。
伏せて並んだ、乾いた水槽。
割れた1つだけが、水を張られていた。
「わざわざ、水を入れてから割ってる」
高槻は、誰にともなく言った。
「水の跳ねる音を、作るために」
大学から一斉メールが来たのは、その3時間後だった。
件名は「学内施設の点検について」。理化学館1階で漏水が発生したため、当面立ち入りを禁止する。
本文は、それだけだった。
水槽のことも、柏木透のことも、1行もなかった。
昼休み、空き教室の戸を開けると、白瀬がいた。
窓際の、いつもの席。
いつもの通り、本を広げている。
私たちの足音に、白瀬は顔を上げた。
栞の代わりに、人差し指が頁のあいだに挟まっていた。
「何かあった?」
私は、朝のことを話した。水槽のこと。倒れていた男のこと。救急車のこと。
白瀬は黙って聞いていた。
「その人、何の人?」
「学生支援課。職員証に書いてあった。柏木、透」
「相談窓口の人だ」
「知ってるの?」
「ハラスメント相談の、担当の人。掲示板に名前が出てる」
白瀬は目を伏せた。
「……人魚姫」
白瀬が、ぽつりと言った。
「え?」
「人魚姫。読んだこと、ある?」
高槻が首を傾げた。
「童話の? 子どもの頃に、絵本でならまあ、?」
「あれ、海の泡になって終わるでしょう」
白瀬は、頁に挟んだ指を抜かなかった。
「でも、その前にもうひとつある。
王子に会うために、
人魚は魔女のところへ行く。」
「足をもらう代わりに、何を渡したか」
私は、水槽の前で見た光景を思い出した。
濡れた床。割れた硝子。うつ伏せの背中。
泡の立つ水面。
「声」
私が言うと、白瀬は小さくうなずいた。
「声を奪われる話」
誰も、すぐには何も言わなかった。
窓の外で、風が枝を揺らしていた。
「柏木さんは、相談窓口の人なんでしょう」
白瀬は、ようやく本から指を抜いた。
「声を聞く仕事の人から、声が奪われた。」
偶然だと言い返したかった。
でも、言葉が出てこなかった。
柏木透は、死ななかった。
喉に、薬品を流し込まれていた。
実験の授業で使う、どこの準備室にもあるものだった。濃いものを、そのまま。
口の端から首へ伝っていた赤い線は、傷ではなかった。流れた跡が、皮膚を焼いていただけだった。
水を吸ったことによる低体温。発見があと1時間遅ければ、と医者は言ったらしい。
意識は、翌日の夕方に戻った。
ただ、声は戻らなかった。
喉の奥が焼けていた。治っても、元の通りにはならないという。
もう少し量が多ければ、気道のほうが先に腫れて、死んでいた。
もう少し少なければ、声は戻っていた。
狙ってできることではない、と医者は言った。
警察は、筆談で事情を聞いた。
夜、学生から相談のメールが来た。窓口には怖くて行けない、理化学館の準備室なら誰も来ないから、そこで話を聞いてほしい、と。行った。暗かった。後ろから、何かで口を塞がれた。それきり。
顔は見ていない。
声も、聞いていない。
柏木透は、ノートにそう書いた。
声を出せないまま。
第四章
白瀬凛は、
童話を教訓として読むのが苦手だった。
良い子にしていれば救われる。
悪いことをすれば罰せられる。
そういう読み方は、たぶん大人が安心するためにある。
物語の中で傷ついている子どもは、いつもそんなに単純ではない。
文学部の講義室で、その日のテーマは「童話における罰」だった。
教授は『赤い靴』と『白雪姫』を取り上げ、信仰、欲望、虚栄、身体への罰について話した。白瀬はノートを取るふりをしながら、窓の外を見ていた。雨が細く降っている。
講義後、プリントを片づけていると、隣の列にいた日辻芽衣がまだ席に残っていた。
日辻芽衣。
同じ文学部の学生。静かで、整っていて、目立つわけではないのに、どこか印象に残る人。白瀬とは顔見知り程度だった。
「白瀬さんは、赤い靴、どう読んだ?」
芽衣のほうから声をかけてきたのは、初めてだった。
「どうって」
「先生の言い方だと、カレンが悪いみたいだったから」
白瀬は少し迷ってから、本当のことを言った。
「履いただけなのに、って思った」
芽衣は、ほっとしたみたいに頷いた。
「よかった。私も」
「足を切るところより?」
「そこも怖いけど」
芽衣はプリントの端を揃えた。
「履いちゃいけないって、誰かが決めてるところのほうが、ずっと怖い」
窓の外は雨だった。その白さが、芽衣の横顔に薄く乗っている。
「白雪姫は?」
今度は、白瀬から聞いた。
「女王が悪い話、ってことになってるけど」
芽衣は少し考えた。
「悪いとは思う。でも」
「でも?」
「鏡も、だいぶ性格悪くない?」
白瀬は思わず笑った。
「鏡に性格ある?」
「ないから嫌なんだよ。本当のことしか言わないって顔で、一番痛いところを毎朝言う」
芽衣はプリントを鞄にしまった。
「正しいことって、時々いちばん聞きたくなかったりするよね」
それは、白瀬の中に小さく残った。
誰にも言ったことのない種類の安堵が、胸の底にゆっくり沈んでいった。
童話の罰を、きれいな教訓として飲み込めない人が、ここにもいる。
窓の雨が、少しだけ強くなった。
祥桜大学中央食堂の設備内で見つかった男性の遺体について、警察は、東京都在住の会社員、坂下悠真さん(32)と発表した。
坂下悠真。
それが、遺体の男の名前だった。
画面の中で、アナウンサーは同じ一文を、抑揚のないまま2度読んだ。
続けて、顔写真が映る。
免許証から切り取ったような、正面の1枚だった。
色白で、目が細い。
口角だけが、きれいに上がっている。
人好きのする顔、と言えば、言えなくもない。
けれど、笑っていないのに
笑って見える顔はなんとも底が測れないような気がした。
怪死事件、という言葉はもう、学内だけのものではなくなっていた。
坂下悠真の名前でSNSを検索する。
イベント関連会社勤務。飲食店の紹介業。
名前を打ち込むたびに、断片が画面に流れ込んでくる。
祥桜の学食で見つかった人、坂下悠真って名前出てるけど、これ駅前でよく声かけてきたやつじゃない?
去年の秋、大学の門のとこで「お店紹介するよ、時給いいよ」って言われた。無視したけど。
まだ警察発表だけで決めつけるのはやめよう。亡くなった人ではあるんだし。
でもあの人、女の子にしか声かけてなかったよね
大学周辺で若い女性に声をかけていた、という証言。
1件ずつは、ただの噂だった。
3件、4件と重なると、輪郭になった。
坂下悠真。祥桜大学。繁華街。紹介。
指が止まらないまま、さらに遡る。
鍵のかかっていない古いアカウントが、ひとつだけ残っていた。
アイコンはマッシュの髪型に横顔、フォロー数だけが妙に多い。
坂下の…アカウント?
半信半疑ではありつつも、
確信に近いような直感でアカウントを開く。
最後の投稿は、2年前の冬だった。
駅前でホットココアおごった☕️ 寒そうな子は、ほっとけない性分なんだよね #冬の夜 #駅前 #優しさ配達中
写真が1枚ついていた。壁際に座り込んだ女の子を、上から撮ったものだった。
仮に冷凍庫の中で凍えていた男の言葉だと思うと、笑えない冗談のようだ。
フォロー欄を開く。
数百の名前が、ただ流れていく。
指で送るたびに、アイコンが入れ替わる。夜の街。猫。自撮り。初期設定の灰色の人影。
その中に、知っている名前がひとつあった。
間宮翔子。
指が止まった。
壊れたページと向き合って、
もう4日を過ぎようとしていた。
流石に高槻にも疲れの色が見える。
「芦見市の学校のこわい話」。
ウェブ魚拓に残っていた、10年前に作られた個人サイト。
3つ目までは読めた。4つ目から先は、記号と見知らぬ漢字の羅列だった。
4縲 蝗帷l縺ョ髫。
文字コードの問題だ。
ブラウザの設定を開き、エンコードを切り替える。
Shift_JIS。だめだった。
EUC-JP。今度は、別の乱れ方をした。
UTF-8。ISO-2022-JP。どれも違う。
高槻は、画面に顔を近づけた。
3つ目までの行は、どの設定でも読める。4つ目からは、どの設定でも読めない。
同じページの中で、途中から符号が変わっている。
「書き足してる」
管理人は、3つ目まで書いたあと、別の機械で続きを書いたのだろう。
高槻は、化けた行をコピーして、テキストエディタに貼った。別の符号で読み直す。二重に化けた文字は、2回戻せば元に戻ることがある。
1回目。別の化け方になった。
2回目。
4 4階◆◆◆の鏡
そこまでが、出た。
4階、何々の、鏡。
真ん中の3文字は、黒い四角のままだった。符号の問題ではない。魚拓を取った時点で、すでにデータが欠けている。戻しようがなかった。
高槻は、魚拓の日付一覧に戻った。同じサイトを保存した記録は、全部で6回。いちばん古いものが13年前。いちばん新しいものが、閉鎖の3か月前。
4つ目の3文字は、どの記録でも欠けていた。
5つ目は、どの記録でも
「5 ◆◆◆。夜中、誰もいないのに、中から◆◆◆がする」
までしか戻らなかった。
6つ目と7つ目は、見出しの番号と、文字数分の黒い四角だけが残っていた。
6 ◆◆◆◆◆◆
7 ◆◆◆◆
文字のほうは、4つ目から先、完全に壊れている。
高槻は、ソースを開いた。
画像のリンクは、全部切れていた。
どの枠にも、壊れた印のアイコンが並んでいるだけだ。ただ、ソースにはファイル名が残っていた。
<img src="img/kyushoku.jpg">
<img src="img/ashioto.jpg">
<img src="img/mizu.jpg">
給食。足音。水。
1つ目から3つ目は、読める見出しと並べても無理がない。
高槻は、ノートを開いた。見開きの左に番号を縦に7つ。右に、わかっていることを書いていく。
1つ目。給食。画像名は kyushoku.jpg。見出しも給食で始まっている。
2つ目。足音。ashioto.jpg。これも、見出しと食い違いはない。
3つ目。水。mizu.jpg。これも同じだった。
給食室。廊下の足音。プールか、水飲み場か、トイレか。どの学校にも、似た話がある。
4つ目は、kagami.jpg。
鏡。
さっき戻した見出しの、最後の一文字と合っている。
「4 4階◆◆◆の鏡」。4階にある、何かの鏡。黒い四角は3つ。3文字だ。
高槻は、右の欄に、4階、と書いた。その下に、鏡。階段の踊り場にある姿見だろうか。それとも、教室の鏡か。
芦見市内の小学校で、4階建ての校舎は多くない。あとで調べることにして、横に小さく星をつけた。
5つ目は、gomi.jpg。
高槻は、欠けた文字を、頭の中で当ててみた。
5 ◆◆◆。夜中、誰もいないのに、中から◆◆◆がする
夜中、誰もいないのに、中から何かがする。
音か、声か、それとも匂いか。
「物音」なら2文字だ。3文字なら、何だ。
足音。話し声。泣き声。
どれも、怪談としては成り立つ。
高槻は、鉛筆の先を紙から離した。
画像名は、gomi.jpg。ごみ。
見出しの頭には、黒い四角が3つある。「ごみ」は2文字だ。「ごみ箱」なら3文字になる。
わからん、、
ぐしゃっと後頭部を掴む。
次は、kyoushitsu.jpg か
教室。
あまりに抽象的だ。
見出しの頭には、黒い四角が3つ。
「教室」は、2文字だ。
足りない3文字は、どこから来たのか。
何かの教室。
高槻は、ノートの端に、鉛筆で書いてみた。
6 ◆◆◆教室
黒い四角が3つ。その後ろに、教室。
理科、音楽、図工。どれも2文字だ。3文字なら、何だ。
7つ目は、kaidan.jpg。
階段。
高槻は、その2文字を、ノートに書き写した。
高槻は、鉛筆を逆さに持ち直した。
こつ。
尻が、机の木目に当たる。
こつ、こつ。
考えがまとまらないときの、昔からの癖だった。
こつ、こつ、こつ。
高槻は、鉛筆を握ったまま、画面の7つ目の名前を見つめた。
市立図書館の児童書の棚は、低い。
白瀬は、床に膝をついて、背表紙を目で追っていた。
棚の3段目。背の低い子でも手が届く高さ。『世界の名作』『日本のむかしばなし』『こわい話』。どれも角が丸くなって、ビニールのカバーが黄ばんでいる。
3週間、探していた。
1件目のときには、何も思い出せなかった。
2件目で、それが形になった。マッチ売りの少女と、赤い靴。この並びを、どこかで読んだことがある。
題名は出てこない。表紙も浮かばない。覚えているのは、悲しい話ばかりだったことと、読んだあと、妙に腹が立ったことだけだった。
実家に電話して、母に本棚を見てもらった。なかった。
蔵書検索に、思いつく言葉を片っ端から入れた。悲しい童話。童話集。雪。
雪明かり。
その4文字が出たとき、指が止まった。
芦見市立図書館。児童書。1冊。
「こちらですね」
カウンターの司書が、棚から持ってきた。
思っていたより、小さい本だった。
布張りの表紙。銀色の雪の結晶。背は日に焼けて、題名が薄くなっている。『雪明かりの童話集』。
エントランスの長椅子で、白瀬は本を開いた。
読むつもりはなかった。
目次だけ、確かめるつもりだった。
紙が、指に吸いつくように柔らかい。何度もめくられた紙の手触りだった。
目次。
マッチ売りの少女。
赤い靴。
人魚姫。
目が、そこで動かなくなった。
事件の並びと、同じだ。
指で行をなぞる。
白雪姫。
ヘンゼルとグレーテル。
眠れる森の美女。
幸福な王子。
ちょうど7章、、
最後の1行に、爪の先が触れたまま止まった。
まだ、起きていない話がある。
「それ」
声がした。
白瀬は顔を上げた。
隣の長椅子に、人が座っていた。
いつから座っていたのか、わからない。
40代くらいの女の人だった。薄いコートの下の、カーディガンのボタンが、1つ掛け違っている。髪はきちんとまとめてあるのに、根元だけ色が違う。荷物はエコバッグがひとつ。
靴だけが、場違いにきれいなパンプスだった。
「うちにも、あったわ」
その人は、白瀬の手元を見ていた。
「娘が、小さい頃に」
白瀬は、何か言おうとした。
言う前に、女の人は自分の言葉に驚いたような顔をした。
「ごめんなさい」
立ち上がる。膝から、本が落ちた。
白瀬が拾って差し出す。
『子どもは親の鏡』。
帯に、穏やかな顔の男の人の写真が小さく入っていた。
「ありがとう」
女の人は、それを胸に抱えた。
歩き出してから、独り言のように言った。
「あの子、悲しい話が嫌いだったのに」
白瀬は、その背中を見ていた。
自動ドアが開いて、閉まった。
外は、まだ雨が降っていた。
その夜、私たちは空き教室に集まった。
寄せた机の上に、家から持ってきた模造紙を広げる。真ん中に、名前のない丸がひとつ。そこから3本の線が伸びて、その先に枠が3つ。坂下。間宮。柏木。
2人が座るより先に、私はスマホを模造紙の真ん中に置いた。
「この子、事件に関係してるかもしれない」
高槻と白瀬が、顔を見合わせた。
画面には、1人の女の子の顔が大きく映っていた。粗く引き伸ばされて、輪郭が少しにじんでいる。茶色の巻き髪。赤い唇。笑っていない目。
「去年の祥桜祭の集合写真。間宮の会社のスタッフが並んでるやつ」
私は指で画面を縮めた。揃いのジャケットの列が戻ってくる。銀杏並木。端で、腕章をつけた坂下が満面の笑みを浮かべている。女の子は、列の左端にいた。周りが全員笑っている中で、1人だけ。
「この子、坂下の投稿にもいた」
坂下の最後の投稿を開く。壁際で膝を抱えて座り込んだ女の子を、真上から見下ろすように撮った写真。顔は膝に埋まっている。
「顔は見えないけど、髪と、この髪留め」
茶色の巻き髪。耳の上に、黒いリボンのクリップ。
「間宮の投稿にも」
夜景を背に、女の子たちが横一列に並んだ後ろ姿。右から2番目に、同じ髪と、同じクリップ。
「坂下と間宮の、両方に?」
高槻が、画面に顔を近づけた。
「2人はつながってたからそんなに不思議じゃないの。
坂下は、間宮のSNSをフォローしてたくらいだし」
私は、坂下の枠から間宮の枠へ、矢印を1本引いた。
「坂下が声をかけて、間宮に回す」
「じゃあ、この子は」
高槻が、画面の女の子に目を落とした。
「坂下に声をかけられて、間宮に回された子、か」
私は頷いて、もう一度、集合写真に戻した。
「間宮の会社は、学祭の協力企業だった。スタッフには、うちの学生もたくさん入ってた」
「この子も、その1人」
だから
「この子に話を聞けたら、犯人に近づける」
「ここから辿れば、
私は、ペン先を真ん中の丸に向けた。
犯人に辿りつける」
高槻は腕を組んだまま、模造紙を見下ろしていた。
白瀬は、何も言わなかった。しばらく写真を見ていて、それから、自分の鞄に手を伸ばした。
「辿る道は、もう1本あるかもしれない」
鞄から出てきたのは、1冊の本だった。布張りの表紙に、銀色の雪の結晶。背は日に焼けて、題名が薄くなっている。『雪明かりの童話集』。
目次を開いて、こちらへ向ける。
7行あった。
「これ、報復の物語だと思う」
そう言う白瀬の声は、いつもよりよく通った。
開かれた最初のページの挿絵は、壁のくぼみでマッチを擦る女の子だった。
「マッチ売りの少女は、通りすがりの人たちに見殺しにされた」
白瀬の指が、挿絵の女の子に触れる。
「でも坂下さんは」
白瀬が、言い淀む。
「凍えていくのを、ずっと見てたんじゃないかな」
さっきの写真が、頭をよぎった。膝に顔を埋めた子を、真上から見下ろす角度。
「それは、よりたち悪いな」
高槻が言った。白瀬は頷いて、ページをめくった。
赤い靴を履いた少女の挿絵を、白瀬の指がなぞる。
「踊らされてたのは、女の子たち」
指が、靴の上で止まった。
「踊らせてたのが、間宮さん」
「間宮が、赤い靴ってこと?」
真っ赤なハイヒールが転がっていた話とリンクする。
白瀬はこくんと頷いて、次のページへ送った。
人魚姫だった。
「柏木さんは、声を奪った人。だから、声を失った」
白瀬はそれだけ言って、少し黙った。
「私も、あの窓口に行った」
本を見たままだった。
「去年の秋」
「そのあと、持ってたものが順番になくなった」
誰も、何も言えなかった。
「柏木さんの声が出なくなったって聞いたとき」
小さく息を吸う。
「かわいそうだと、思えなかった」
ページの端を押さえる指に、力が入っていた。
「こう言うと悪いけど」
言葉を選ぶように、一度、視線を外す。
「ターゲットになるには、十分な人物だったわけだよね」
白瀬は、否定しなかった。
ただ、ページの端を押さえていた指から、ふっと力が抜けた。
次のページをめくる。
手が、止まった。
指先には赤いりんごの挿絵。
「次は、白雪姫ってことね」
私の声に、白瀬が顔を上げた。
目が合う。何か言いかけた唇が、そのまま閉じた。
私は鉛筆を取った。
先に描いた3つの枠の下に、枠を1つ、描き足していく。
白雪姫。
「ってことは、女王様が被害者か」
高槻が、パソコンを開いた。
画面に映っているのは、文字化けの残った、どこか懐かしい雰囲気のWebサイトだった。
1 給食室の冷凍庫
2 体育館の靴音
3 理科室の水槽。夜中、空っぽなのに水の跳ねる音がする
4 4階◆◆◆の鏡
5 ◆◆◆。夜中、誰もいないのに、中から◆◆◆がする
6 ◆◆◆教室
7 13階段
「文字化けがひどくてな。なんとか読めるとこまで回復できたのが、これだけだった」
高槻は、画面の4行目を指でなぞった。
「4階の、3文字の場所。ずっと決めかねてたんだが」
そこで、ようやく腑に落ちたという顔をした。
「トイレだ。女子トイレの鏡。次の場所は、そこだ」
高槻は鉛筆で、描き足した4つの枠に怪談を書き写した。4番の枠だけ、黒い四角のかわりに字が入った。
4階 女子トイレ 鏡。
「4階の女子トイレなんて、あったっけ?」
「それを探すんだろ」
それもそうか、と思いながら、気になっていたことが口に出た。
「で、女王は誰なのよ」
「白雪姫を追い出したり、見ないふりをしたりした人間だろ。」
言いにくそうに誰かは分からんがと続ける高槻。
「そこが一番重要でしょうよー」
私が声を上げると、
高槻は「分からんもんは分からん」と口を結んだ。
その隙間に、白瀬のつぶやきが落ちた。
「そうかな」
かすかな声だった。聞こえたのは、たぶん、白瀬自身だけだ。
私は、もう一度模造紙を見る。
頭の中を整理するために、2人の話を、上の3つの枠に書き込んでいく。
凍えるのを見ていた男。踊らせた女。声を奪った男。
3人とも、さまざまな角度から女の子を不幸にした人々だ。
「ねえ」
書き終えたペンを、私は紙から浮かせた。
「これってさ、、まだ続きがあるってことだよね」
2人とも頷く。
「童話も、怪談も、残りはちょうど4つ」
犯人の丸を囲うように、枠を4つ描いていく。
4番目の枠に、ペン先を置いた。
「次は、
4つ目の枠に書き込んでいく。
「童話が、白雪姫
で、
「4階のトイレの鏡が怪談だ。」
と高槻。
「次は」
「ヘンゼルとグレーテル」
白瀬が本の背表紙を撫でながら言う。
「怪談は、悪い。まだわかってない。ゴミが関係することしかわからん。」
ヘンゼルとグレーテル
と
ゴミ
を書き込む。
「そして、6つ目」
言いかけた私の声に、2人の声が重なった。
「眠れる森の美女」
「何とか教室」
白瀬と高槻が、ほぼ同時に言う。
顔を見合わせて、高槻が先に目をそらした。
「……文字化けしててわからなかった。
音楽室か、理科室か、そのあたりだとは思っている。」
「怪談の方は、調査続投って感じか」
そんな軽口をたたきながら、
6つ目の枠に、童話と怪談を、ひとつずつ書き込む。
「最後は」
私はペンを持ち直す。
「幸福な王子」
白瀬が静かに言い、
「…階段」
高槻が、それに続く。
7つ目の枠に、ふたつの言葉を並べた。
幸福な王子
と階段
なにも繋がりがないこの2つの単語が
どう繋がるのか。
少しの沈黙。
「……なんだか、儀式みたい」
白瀬がぼそりと言う。
「殺すだけなら、マッチ箱も、片方だけの靴もいらない」
高槻が頷いた。
「怪談に準える必要もない」
「目的は、殺すことだけじゃないってこと?」
私が訊くと、白瀬は答えるかわりに、りんごの挿絵を指先で押さえた。
「意味はあると思う。柏木さんは、生きているし」
「だとしたら、順番どおりに最後までやることも、犯人の意図に入ってる」
高槻が言う。
「次の被害者は、必ず出る」
「……あと4人。終わるまで、終わらない」
白瀬の声は低かった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「私たちが止めるしかない」
この込み入った意図を知っているのは、たぶん私たちだけだ。
かすかな使命感が、胸の奥に灯った気がした。
第五章
大学の裏掲示板に、そのスレッドが立ったのは、2つ目の事件のすぐあとだった。
【祥桜】うちの大学、最近おかしくない?
最初は、ただの噂話だった。
3:食堂の冷凍庫、夜中に中から叩く音するらしい
4:>>3 それもう人いないだろ
7:体育館の地下も立入禁止になってるよな
12:靴音するって。片足だけ
13:>>12 やめろ
3つ目の事件のあと、スレッドは、もう3本目になっていた。
【祥桜】七不思議スレ その3
41:理化学館、空っぽの水槽で水が跳ねるって
42:冷凍庫、靴音、水槽 これ七不思議じゃね
44:大学に七不思議とかないだろ
45:>>44 今できてんだよ
52:友達の先輩が夜の理化学館で聞いたって
58:俺も聞いた
59:>>58 嘘つけ
書き込みのほとんどは、少しずつ盛られていく。「友達の先輩が」は、いつのまにか「私が」になる。
その中に、ひとつだけ、妙に整った書き込みがあった。
61:祥桜大学の七不思議 その3
理化学館の水槽は、夜中、空っぽなのに水が跳ねる。
レスは、ついていなかった。
番号が、ふってある。
ゆっくりと、確実に何かが根付き始めていた。
「さすがに、ここじゃないんじゃない?」
養生テープを貼り直しながら、私は言った。
4階の女子トイレに張り込んで、今日で3日になる。
改装中の個室の隅に、安い見守りカメラを仕掛けた。
怪しい動きがあれば、すぐ飛び出せるように。
電池が切れたら、こうして取り替えに来ている。
今朝の当番は、白瀬だった。
「いつ来るのかとか、そういうのもちゃんと考えようよ」
二進も三進も行かなくて、音を上げてしまいそうだ。
「場所だって合ってるかわからないのに。当てずっぽうじゃ無理だって」
「わかってるよ。俺だってやることはやってる」
高槻は少し不満そうに、ん、とスマホを突き出した。
黒い背景に、白い文字が並んでいる。
「……なにこれ」
「オカ板。3週間前に立てた」
一番上に、スレッドのタイトルがあった。
1つ目が給食室の冷凍庫から始まる学校の七不思議知ってるやついる?
レスは3つしかなかった。
釣り乙
うちは音楽室だった
冷凍庫は新しいな
「……なるほど」
なかなかに渋い成果だ。
「こんな情報が集まる場所、ほかに思いつかなかったんだよ」
高槻が後頭部をぐしゃっと掴む。
「ねえ、高槻ってTwitterやってる?」
「……見る専」
「アカウントはあるんだ。なら話は早い」
「なにするつもりだよ」
「SNSはね、掲示板だけじゃないの」
口角が、自然と上がった。
私は高槻のスマホを受け取って、ブルーシートの上にしゃがみこんだ。高槻も、隣にしゃがむ。
「まず、あのサイトのスクショ。文字化けしてるとこ、そのまま」
「読めないとこ載せてどうすんだよ」
「読めないから、見たくなるの」
高槻が、むっとした顔をする。
「それと、聞かない。『知ってるやついる?』じゃなくて、『見つけた』って書く」
「……ハッシュタグは」
「いらない。つけると宣伝っぽくなる」
下書きを作って、高槻に返した。
「芦見市、ってだけは入れといた。地元の人が拾ってくれるから」
「送るのは、高槻ね。返事が来たら、ちゃんと自分で返すんだよ」
高槻は画面を見たまま、小さく頷いた。
「一旦帰りますか」
立ち上がると、窓の外はもう暗くなっていた。
ガラスに、私の顔が映っていた。
その夜、通知が1件鳴った。
高槻が、投稿していた。
消えた小学校の七不思議サイトを見つけた。
1つ目、給食室の冷凍庫。
2つ目、体育館の靴音。
今年うちの大学で人が死んだ場所と、同じ順番。
4つ目だけ読めない。
「4階◆◆◆の鏡」
芦見市の小学校だった人、この3文字わかりますか
文字化けしたトップページのスクショが、1枚ついていた。
下書きのまま、一文字も変えていなかった。
私は、それをリポストした。
朝、高槻は通知の音で目を覚ました。
一度ではなかった。枕元で、スマホが震え続けている。
寝ぼけたまま画面を開いて、指が止まった。
リポスト、3200。
桁を、2回数え直した。
昨日まで、誰にも見られていなかったアカウントだった。
引用が、画面を埋めていた。
うちの小学校にもあった。◆◆◆って音楽室じゃね。理科室だと思う。トイレ一択。芦見市民だけど知らない。こういうの夜中に見るもんじゃない。
音楽室。理科室。トイレ。
どれも、3週間前に、自分が1人で考えたことだった。
3週間かけて3つしか来なかったものが、一晩で、これだ。
「……なんだよ、これ」
声に出ていた。
スクロールする指が、追いつかない。読めない3文字に、知らない誰かが群がっていく。
その中に、ひとつだけ、引っかかる1行があった。
それ、たぶん俺たちが作ったサイトです。
それだけだった。いいねは、3つしかついていない。考察の波に、半分埋もれている。
高槻は、布団の上で起き上がった。
アカウントを開く。アイコンは、自転車のハンドル越しに撮った川沿いの道。
〈芦見出身/芦見工科大 情報/ラーメンと古いPC〉
芦見工科大。ここから、電車で2駅。
釣りじゃない。
直感がそう言っていた。
プロフィールのDMアイコンを開く
突然すみません。七不思議の投稿をした者です。祥桜大の高槻といいます。芦見工科大の近くなので、もしよければ、直接会って話を聞かせてもらえませんか。
送信済み、の小さな文字を、高槻はしばらく見ていた。
高槻の投稿のバズり方は、想像以上だった。
私のスマホにも、同じ話題が3度、別々の人の手で流れてきた。
「私も負けてらんないわ」
スクロールをやめて、保存しておいた写真を開く。
学祭の記念写真だった。12人。揃いのジャンパーを着て、同じ角度に口の端を上げている。
1人だけ、笑っていない子がいた。
4日前の夜から、何度この顔を拡大したかわからない。
画素が荒れて、目の輪郭がほどけていく。それでも、視線だけはこちらを向いている気がした。
ふと思いついて、写真をタップした。
白い吹き出しが、いくつも浮かんだ。
並んだスタッフの肩の上に、ひとつずつ。
タグだった。
11人分。左端の子にだけ、タグがついていなかった。
私は、一番右の子のアカウントから開いた。
突然すみません。
祥桜の椎名といいます。
去年の学祭で、間宮さんの会社のスタッフをされていた方ですよね。
間宮さんや坂下さんのことで、少しだけお話を聞かせてもらえませんか。
それと、写真の左端の子のことも。知っていたら、教えてほしいです。
送信。次のアカウント。同じ文面を貼りつけて、送信。
次。
次。
11人に送り終わったとき、2限は半分過ぎていた。
昼までに、既読が6つついた。
返事は、2つだけだった。
もう辞めたので、わかりません
警察にも話したので。すみません
1人には、ブロックされていた。
誰も、間宮の名前を書いていなかった。坂下の名前も。
3限が始まる直前に、通知が1件鳴った。
間宮さんのことは話せない。ごめん
左端の子は、文学部の黒宮レイナ。あんまり関わんないほうがいいよ
いるなら講義棟裏の喫煙所。いつも1人だから
お礼を打つ前に、そのアカウントは鍵付きになった。
講義棟の裏。自販機の陰に、灰皿がひとつ置いてある。
彼女は、そこにいた。
黒い服。壁に立てかけた、閉じた黒い傘。茶色の巻き髪。耳の上に、黒いリボンのクリップ。
写真より、ずっと痩せて見えた。
「……黒宮さん、だよね」
煙を吐いてから、彼女はこちらを見た。赤い唇。笑っていない目。
「ああ」
口の端だけが、少し動いた。
「片っ端からDM送ってる人だ」
息が詰まった。
「回ってきたよ。3人から」
彼女は、スマホの画面をこちらに向けた。私が送った文面のスクショだった。
「人のこと詮索して、楽しい?」
声は、静かだった。
「違うの。坂下も間宮も、亡くなったでしょ?
あの人たちに関わってた子のこと、
知りたくて。もし何か知ってたら」
「知ってたら、何」
返す言葉が、出てこなかった。
「あたしが、やったって?」
「そうじゃない」
「じゃあ、仲間がいるとか?」
彼女は、自嘲気味に笑ってはっと息を吐く。
「あたしに仲間なんていないけど」
煙草を灰皿に押しつけて、傘を取る。私の横を抜けていく。
すれ違いざまに、彼女は言った。
「まあ、ガラスには気をつけな」
振り返ったときには、もう背中しか見えなかった。
黒いリボンが、角を曲がって消えた。
掲示板の隅に、その貼り紙はあった。
子どもは親の鏡 御影俊成 講演会 木曜午後3時 講義棟3階
白瀬は、しばらくその前から動けなかった。
子どもは親の鏡。
図書館の長椅子で、膝から滑り落ちた本を思い出す。
拾って渡したとき、帯に小さな顔写真が見えた。
眼鏡の奥で目を細めた、穏やかな笑顔の男。
その顔が、いま目の前の貼り紙に、同じ大きさで載っている。
鏡。講義棟。
『女王は誰なのよ』
椎名の声が、耳の奥でもう一度鳴る。
女王は、本当に今回の被害者なのか。
もたげた疑問は、拭っても消えなかった。
童話の女王は、白雪姫の実の母親だったともいわれる。
実の母が、娘の死を願うだろうか。
それは、あまりにも…
悲しくないだろうか?
悲しすぎて、かえって疑いたくなる。
誰かに、唆されたのではないか。
そう考えるほうが、まだ救いがあった。
貼り紙から、目を離せない。
確信は、なかった。だから、誰にも話せなかった。
ただ、嫌な予感だけが、耳鳴りのように止まなかった。
返事が来たのは、木曜の朝だった。
三好です。今日の3時なら空いてます。駅前のファミレスでいいですか
芦見工科大の駅を出ると、ロータリーの向こうに、見慣れた看板が光っていた。
窓際の4人席で、男がひとり、ノートパソコンを開いていた。黄ばんだ、分厚い機種。投稿で見たやつだった。
「高槻さん?」
「はい。急に、すみません」
「いや。まさか、あれがバズるとは思わなかったです」
三好は、気の抜けたように笑った。テーブルの端に、飲みかけのメロンソーダ。
「小学校のとき、パソコンクラブの部長やってて。部員、4人しかいなかったけど」
高槻はドリンクバーだけ頼んだ。三好は、ドリアが来るのを待たずに、パソコンをこちらへ向けた。
「押し入れ探したらこれに、残ってました。サイトのデータ、まるごと」
画面に、見覚えのある黒いページが開いていた。
文字化けは、ひとつもなかった。
1 給食室の冷凍庫
2 体育館の靴音
3 理科室の水槽
指が、4行目で止まった。
4 4階踊り場の鏡。毎月4日の、夕方4時44分に覗くと、鏡のむこうに連れていかれる。
◆◆◆。
3文字が、そこに収まった。
トイレじゃない。
ずっと、女子トイレの前で張り込んでいた。3日間。カメラの電池を替えながら。
「……踊り場」
声に出ていた。
「うちの小学校、4階の踊り場に、でかい鏡があったんですよ。夕方になると西日が当たって、ぎらぎら光るやつ」
ドリアが来た。
「これ、作ったのは、三好さんたちなんですよね」
「サイトにしたのは、俺です。中身は、部員の後輩が考えたやつで」
三好は、スプーンで表面の焦げを割った。
「部員、4人しかいなかったんですよ。俺と、同級生と、2個下の女子が2人。七不思議は、その2人がノートに書いてきて。暗い話ばっかり考える子たちだったなあ」
「そのころの写真って、ありますか」
三好は、スプーンを止めた。
「写真?」
「部活の。集合写真とかだと助かるんですが」
三好は少し考えてから、頷いた。
「アルバムになら、あるかも。母親がどこかにしまい込んでるんで、ちょっと時間かかるかもですけど」
「お願いします」
高槻は、画面に目を戻した。
5行目。6行目。7行目。
全部、読めた。
「これ、コピーさせてもらえますか」
「どうぞ。もう俺には、ただの思い出なんで」
USBを差し込む。進捗のバーが、ゆっくり伸びていく。
その間に、高槻は4つ目の一行を、もう一度読んだ。
毎月4日の、夕方4時44分。
スマホの時計は、3時58分を指していた。
今日は、12月4日だった。
木曜、午後3時。講義棟3階の大教室。
入口に、長机がひとつ出ていた。受付、と手書きの紙が貼ってある。
「セミナーご参加でしょうか?」
座っていた女の人が、白瀬を見上げた。
白瀬は、一歩目で足が止まった。
灰色のカーディガン。根元だけ色の違う、きちんとまとめた髪。
図書館の、あの人だった。
今日は、ボタンがひとつも掛け違っていなかった。胸に、手書きの名札。黒宮。
「学生です。少し、興味があって」
「あら」
その人は、嬉しそうに笑った。笑い方が、少しだけ遅れて来た。
それから、白瀬の顔を見て、もう一度、少し遅れて言った。
「……図書館の」
「はい。このあいだは」
「ごめんなさいね、あのとき。急に話しかけて」
黒宮さんは、恥ずかしそうに、名札の端を指でいじった。
「若い人が来てくれると、先生、喜ぶの。どうぞ、どこでも」
白瀬は、後ろの端の席に座った。
開演の少し前に、黒宮さんが受付を離れて、白瀬の席のすぐ斜め後ろに立った。手に、使い込んだノート。表紙に、マジックで、鏡のノート、と書いてある。
御影俊成は、穏やかな人だった。
声が低くて、ゆっくりで、一度も言葉を強めなかった。
「みなさん、よく来てくださいました。ここに来られたということは、もう、気づきはじめているということです」
何人かが、小さく頷いた。
「子どもは、親の鏡です。映っているのは、お母さん、あなたです。だから、子どもを変えようとしなくていい。あなたが、鏡を磨けばいい」
御影は、少しだけ首を傾けた。
「では、ご一緒に」
教室の声が、ひとつに揃った。
「自分の鏡を磨きます」
誰も、紙を見ていなかった。
後ろから、ひとつだけ、少し大きな声が聞こえた。
白瀬は、口を閉じていた。
「よくなったら、それは、あなたが磨いたからです。よくならないなら、まだ曇りが残っているだけ。焦らなくていい。また、ここで一緒に磨きましょう」
黒宮さんは、立ったまま書いていた。一言も漏らさずに。御影が言葉を切ると、ペンが止まる。喋り始めると、動く。
少しだけ首を回すと、開いたページの端が見えた。小さく日付が並んでいる。今日の日付。その上に、別の日付。その上にも。
質疑応答になった。
手を挙げたのは、2人だった。2人目が終わると、御影は教室の後ろに目を向けた。
「黒宮さんも、何かありますか」
会場の何人かが、振り返った。
黒宮さんは、少しの驚きと嬉しさが隠せないような顔をして、
それから、マイクを受け取った。
「娘が」
マイクを持つ手が、少し揺れていた。
「家にほとんど帰ってこなくて、どうしようかと思って...」
御影は、ゆっくり頷いた。
「黒宮さんは、ずっと、よく磨いていらっしゃいますね」
黒宮さんの肩から、力が抜けたのが見えた。
「お嬢さんは、お母様を試しているんですよ」
会場が、静かに頷いた。
「帰ってこないのは、お母様がどこまで追いかけてくるか、確かめたいからです。そうやって、お母様を振り回している」
「……振り回して」
背後で、黒宮さんが小さく繰り返した。
「追いかけなくていい。お母様は、もう十分に頑張っていらっしゃる。お嬢さんのことは、それからで大丈夫」
「……はい」
さっきより、少しだけ硬い声だった。
欲しい言葉を、欲しいだけ与える。
それから、娘の話をする。
鏡よ、鏡。
女王が欲しい言葉を与え、
それから、白雪姫の名前を告げた鏡。
白瀬は、壇上から目を離せなかった。
御影は、穏やかに微笑んでいた。少しだけ、首を傾けて。
鞄の中でスマホが鳴っていることにも、白瀬は気づかなかった。
4時30分。拍手。
御影は深く一礼すると、拍手が鳴りやむのを待たずに壇を降りた。
鞄を手に、まっすぐ出口へ向かう。誰とも、目を合わせなかった。
白瀬は、腰を浮かせた。
「ごめんなさい、ちょっと手伝ってもらえる?」
黒宮さんだった。受付の長机の端を、もう持ち上げかけている。
白瀬は、出口を振り返った。
御影の背中は、もう見えなかった。
「ありがとう。よかったでしょう」
「はい」
白瀬は、嘘をついた。
黒宮さんは、残った資料を揃えながら、独り言のように言った。
「玲奈も、こういう会に来てくれたらいいのに」
「娘さん、ですか」
黒宮さんは手を止めて、ノートの表紙をめくった。挟んであった1枚を、抜き出す。
色の褪せた写真だった。ランドセルの女の子が、校門の前で、歯を見せて笑っている。
「この頃までは、よく笑う子だったのよ」
親指が、写真の端を撫でた。
「今は、ほとんど顔も合わせられてないけど」
白瀬は、写真から目を離せなかった。
女の子の耳の上に、黒いリボンのクリップ。
「ああ、それ?」
黒宮さんが、白瀬の視線をたどって、少し笑った。
「ガチャガチャで当てたんですって。お友達と2人で、同じのが出るまで回して。お小遣い、全部使っちゃって」
それから、笑ったまま、付け足した。
「黒なんて、女の子に似合わないって言ったのにね。毎日、つけて行くの」
白瀬は、そのクリップを知っていた。
椎名のスマホの中で、何度も見た。坂下の投稿の、膝を抱えた子の耳の上。集合写真の、1人だけ笑っていない子。
『雪明かりの童話集』を、小さい頃に読んでいた子。
窓の外で、西日が、沈みかけていた。
喫煙所から戻る途中、私は高槻に電話をかけた。
話し中だった。
切ろうとした瞬間、画面が切り替わった。高槻から。
「椎名、今どこ」
「講義棟の裏。ねえ、黒宮レイナに会った。写真の子」
「あとで聞く。踊り場だ」
「え?」
「4つ目。トイレじゃない。4階の、踊り場の鏡。毎月4日の、夕方4時44分」
足が止まった。
「……今日じゃん」
「ああ。警備には電話した。工事中の階だから立入禁止です、で切られた」
電話の向こうで、発車のベルが鳴っていた。
「今、電車に乗った。2駅。講義棟の下で待ってろ。1人で上がるな」
切れた。
私は、そのまま白瀬に電話をかけた。
呼び出し音が7回鳴って、留守番電話に切り替わった。
もう一度かける。同じだった。
講演会に行く、と今朝のグループに一言だけ来ていたのを思い出した。
16時9分。あと、35分。
4時31分。
講義棟の前で、走ってくる高槻を見つけた。
「白瀬は」
「出ない」
高槻は、何も言わずに扉を押した。
4時38分。
階段に、2人分の足音が跳ね返る。
1階。
踊り場の窓が、橙に濡れていた。
2階。
息が、喉の奥で擦れた。肺が焼けるように熱い。手すりを掴んだ掌が汗で滑り、一度、体が横に流れた。
「椎名!」
高槻の手が、私の肘を引いた。
返事の代わりに、段を2つ飛ばした。
靴底の音が、1つに重なっていく。
3階。
4時42分。
間に合う。
間に合う。
あと1階で踊り場。
高槻の背中が、半歩だけ前に出た。
私は、その背中を追った。
脚が、自分のものではないみたいだった。
上から、薄い光が降りてくる。
壁に、窓の形の橙が、斜めに伸びていた。
その光の端が、ゆっくりと暗くなっていく。
3階の踊り場を、体ごと曲がった。
上を見た。
上から、足音が降ってきた。
駆け足だった。
軽く、速く、乱れた足音。
4階と5階のあいだの踊り場に、人影が現れた。
暮れていく空を背負って、輪郭だけが黒い。
階段を、こちらへ駆け下りてくる。
「待って!」
声が、階段に跳ね返った。
人影の肩が、びくりと跳ねた。
足が、一段、遅れた。
その足元がおぼつかなくなって
体が、前に傾いた。
スローモーションに見えた
窓から差す橙を受けて、水の膜が鈍く光っている。
人影の腕が、宙を掻いた。
何かを掴もうとして、ガラスのほうへ伸びる。
そのガラスが、沈みかけた陽を受けて白く燃えた。
4時44分。
伸びた指先が、腕が、肩が
白い窓ガラスに吸い込まれるように
倒れこむ。
手を伸ばした。届くはずのない距離に。
ガラスが、枠ごと、外へ出ていった。
一瞬、何も聞こえなかった。
下で、ガラスが砕けた。
続けて、重いものが石を打つ鈍い音。
悲鳴が、吹き抜けを駆け上がってきた。
高槻が、階段を駆け上がる。
私は、動けなかった。
階段の上で、高槻の体が、がくん、と前に折れた。
窓のなくなった枠へ、そのまま投げ出される。
「高槻!」
高槻の手が、枠の縁を掴んだ。半身が、外の暗がりに乗り出している。
足が、やっと動いた。階段を駆け上がって、高槻のベルトを掴み、後ろへ引く。
2人で、踊り場の床に倒れこんだ。
高槻の掌から、血が出ていた。むき出しになった枠の金具で切ったらしい。
荒い息のまま、高槻は床すれすれの一点を睨んでいた。
顔を近づけて、ようやく見えた。
吹き込む風に、光を反射して細い線が1本、震えている。
糸だった。
そのとき、4階の廊下の奥で、何かが擦れる音がした。
顔を上げた。
照明の落ちた廊下の突き当たり。非常口の緑の明かりを、影が一瞬、横切った。
養生シートが、揺れていた。
震える指で、スマホを出した。番号を押し間違えて、消して、もう一度押した。
「110番です。事件ですか、事故ですか」
「じ、事件です」
声が、裏返った。
「人が、落ちました。祥桜大学の、講義棟です。4階から。……まだ、誰か、いるんです」
自分の声が、遠かった。
他人の口から出ているみたいだった。
電話の向こうで、落ち着いた声が何かを訊いている。
場所。怪我の様子。あなたの名前。
答えようとして、喉が鳴った。
隣で、高槻が血のにじむ掌を握りこんだ。
廊下の奥で、養生シートがまた、ふわりと揺れた。
片付けを終えて、黒宮さんと並んで、
メイン広場を抜けようとしていたところだった。
噴水の脇。
葉を落としかけた銀杏の下。
講義棟の壁までは、20メートルほどある。
誰かが、あっ、と声を上げた。
白瀬は、顔を上げた。
講義棟の4階のあたりから、大きな板のようなものが、宙に剥がれた。
ガラスだった。枠ごとの一枚が、暮れ残った光を跳ね返しながら、落ちてくる。
そのすぐ後ろに、黒い塊がひとつ。
次の瞬間、ガラスが、建物の足もとの石畳に叩きつけられた。
空が割れたような音だった。
破片が、雨のように弾けて、白瀬たちの足もとまで転がってきた。
続けて、鈍い音。
悲鳴が上がった。誰かが傘を落とした。広場にいた人たちが、一斉に足を止める。
ガラスの散った先に、何かが横たわっている。
誰かが、恐る恐る近づいていく。また1人。人の輪が、少しずつ縮まっていく。
白瀬も、その輪に押されるように前へ出た。黒宮さんも、隣を歩いていた。
濃い色の上着。白いシャツ。少し離れたところに、革の鞄が投げ出されている。
黒宮さんの足が、止まった。
赤が、石の目に沿って、広がっていく。
御影俊成だった。
「……先生?」
小さな声だった。
次の瞬間、黒宮さんは、人の輪を突き破っていた。
「先生! 先生、先生!」
ガラスの上に、膝から崩れ落ちる。御影の肩を掴んで、揺する。顔を覗き込んで、髪を撫でて、また揺する。
「いや、いや、いやっ」
悲鳴だった。言葉が、言葉の形をしていなかった。
誰かが止めようと手を伸ばした。黒宮さんは、その手を振り払った。
白瀬は、スマホを出した。指が、思うように動かない。
119。
「救急です。人が、落ちました」
自分の声が、ひどく静かだった。
場所を言った。意識はない、と言った。確かめていなかった。確かめなくても、わかった。
電話を耳に当てたまま、黒宮さんの後ろに膝をついた。
肩を、抱きかかえる。
剥がれない。
黒宮さんの掌から、血が出ていた。膝の下にも、手の下にも、ガラスがある。御影の血と、彼女の血が、白いシャツの上で混ざっていく。
気づいていなかった。
「黒宮さん」
強く引いた。
黒宮さんの体から、ふっと力が抜けた。
振り向いた顔は、何も、見ていなかった。
救急車が来るまで、白瀬は黒宮さんの両手を握っていた。
傷口から、血が止まらない。白瀬の手も、赤く染まっていく。
黒宮さんは、何も言わなかった。御影だけを、見ていた。
鏡。
貼り紙の前で鳴りやまなかった、耳鳴りのような予感。
やっぱり、女王じゃなかった。
罰を受けたのは、…鏡のほう。
当たっていた。
当たっていたのに、誰にも言わなかった。
あのとき、背中を追いかけていれば。
後悔しても遅すぎた。
その夜、3人は私の部屋にいた。
模造紙は、床に広げたままだった。4段目の枠の、女子トイレ、の字に、高槻が線を引いた。横に、踊り場、と書き足す。鉛筆の先が、一度折れた。
その横に、今日の日付。
誰も、しばらく喋らなかった。
高槻の右手には、白い包帯が巻かれていた。
白瀬のシャツの袖口には、茶色く乾いた血の跡が残っている。着替える暇もなかったのだろう。
私は、二人の手元から目をそらした。
模造紙の上で、鉛筆が転がった。
折れた芯の粉を引きながら、枠の縁で止まる。
誰も拾わない。
「集合写真の子、見つけた」
最初に口を開いたのは、私だった。
「……よく見つけたな」
「片っ端から、DMした。
名前は黒宮レイナ。文学部の2年」
「何か言ってたか」
「仲間なんていない、って。それから」
少し迷ってから、言った。
「ガラスには気をつけな、って」
高槻が、顔を上げた。
白瀬は、膝の上で手を重ねたまま、動かなかった。
「……黒宮」
白瀬が、小さく繰り返した。
重ねた手に、少しだけ力がこもった。
「どうしたの」
「受付の人の名札」
それきり、白瀬は黙った。
しばらくして、白瀬がぽつり、ぽつりと話しはじめた。
一言ずつ。間を空けながら。
貼り紙。図書館で会った人。受付の名札。
自分の鏡を磨きます、という声。お嬢さんのことは、それからで大丈夫。
片付けのあとに見せられた、1枚の写真。
「女の子のつけてるの、
同じクリップだった」
「名前は…?」
「玲奈」
黒宮。玲奈。
私がつかんだ名前と、白瀬が聞いた名前が、ひとつになった。
あと、
と白瀬が続ける。
「被害者」
白瀬が、誰の顔も見ないまま言った。
「女王じゃ、ない、って。……最初から、思ってた」
独り言みたいな声だった。
私と高槻は、顔を見合わせた。
「なんで言わなかったんだよ」
高槻の声が、少しだけ強くなった。
白瀬は、袖口の茶色い染みを見下ろした。
「……不確かだったから」
小さな声だった。
それ以上、白瀬は何も言わなかった。
責める言葉は、喉の手前で消えた。
不確かだったから。
その一言に積もっていたものの重さが、わかってしまった。
高槻も、何か言いかけて、そのまま口を閉じた。
「でも、そもそも、なんで御影だったんだろう」
口に出してから、自分でも引っかかった。
「白雪姫なら、狙われるのは女王でしょ。御影は、レイナの親でもなんでもない」
「鏡、だったんだよ」
しばらくして、白瀬が言った。
「鏡?」
思わず聞き返す。
白瀬は、顔を上げないまま続けた。
「女王の鏡は、」
一度、言葉を切る。
「毒を盛ったわけじゃない。刃物も、持ってない」
「ただ、答えただけ」
「実の娘を、殺したいと、思わせた」
鏡よ、鏡。
女王が聞きたい答えを返し続けて、ある朝、白雪姫の名前を告げた鏡。
女王が毒林檎を用意したのは、その一言のあとだ。
「確かに、、そうとも取れるか。。」
高槻が、模造紙の4段目を見た。
女王?、という自分の字に、鉛筆で線を引く。
その横に、鏡、と書いた。
「俺は、ずっと女王を探してた」
私もだ。
トイレの前で3日間、来るはずのない女王を待っていた。
役も、場所も、外していた。
「もう、当てずっぽうはやめだ」
高槻が、鞄からUSBを出した。三好から受け取ったものだった。
「七不思議、全部わかった」
ノートパソコンに差す。文字化けのない、完全なページが開いた。
1 給食室の冷凍庫
2 体育館の靴音
3 理科室の水槽。夜中、空っぽなのに水の跳ねる音がする
4 4階踊り場の鏡。毎月4日の、夕方4時44分に覗くと、鏡のむこうに連れていかれる。
5 焼却炉。夜中、誰もいないのに、中から呻き声がする。
6 開かずの教室。入ると眠って目を覚まさない。
7 記念堂の13階段。13段目を踏むと、違う世界に行く。
「起案者は、パソコンクラブの2個下の女子2人らしい」
高槻はそう言って、画面の5行目を指でなぞった。
「次は、焼却炉」
「焼却炉って、施設課の裏の、あれ?」
「ああ。うちの大学で焼却炉っていったら、あそこしかない」
「第二小の裏にも、古い焼却炉があったらしい。もう使われてないのに、夜になると、中から呻き声が聞こえるって」
誰もいない夜。
冷えた鉄の箱の奥で、何かが身じろぎする。
想像しかけて、やめた。
「童話は、ヘンゼルとグレーテル」
白瀬が続けた。
私は、模造紙の5段目に書き込んでいく。
被害者候補は……
童話のとおりなら、魔女だ。
でも。
「……魔女じゃ、ないんだよね」
そうだと思う、と白瀬。
「魔女の家に行くことになった、原因」
「原因って、、」
思わず聞き返す。
「ヘンゼルとグレーテルの親、か?」
高槻が言った。
両親、とくに継母が、兄妹を邪険にし、森の奥へ連れていき、そのまま置いて帰ったといわれている。
置いてけぼりになった2人が迷い込んだのが、お菓子の家だった。そこに住む魔女に捕まり、最後は魔女を竈で焼いて逃げ出す。
あの童話の中で、親は罰を受けない。
「女王が黒宮さんなら……レイナにとっての、もう1人の親ってことになる?」
「父親ってことか」
高槻が聞く。
「継母の話だし、父親代わりの人も、ありえるかも」
そうだな、と高槻が頷いた。
私は、5段目の枠に、親?、と書いた。
「黒宮さんと、連絡先、交換した」
白瀬がおもむろに口を開いた。
膝の上で、スマホを握りしめている。
それでも、指は離れなかった。
「お父さんのこと、探ってくる」
いつもより、声に芯があった。
「これ以上、被害者を増やしちゃだめ」
「ああ」
高槻は、包帯の右手を握った。
「……間に合わなかった、は、もうなしだ」
「俺は、焼却炉を当たる」
「私は、もう一度、黒宮レイナに会う」
決めつけるには、まだ早い。
でも、どの線を辿っても、あの子のまわりを通っている。
犯人に、いちばん近いのは、あの子だ。
「あとは、日付だ」
高槻は、模造紙の枠ごとに、4つの日付を書いた。
10月2日。11月3日。11月21日。そして今日。
「1か月。3週間。2週間」
間が、詰まっている。
「次は、もっと短い。1週間だ」
高槻は、鉛筆の先で、カレンダーを叩いた。
「多分、来週の、木曜か、金曜だ」
今度こそ、先に着く。
誰も口にしなかったけれど、3人とも、同じことを考えていた。
第六章
彼女は、鍵の束を数えていた。
資材置き場。倉庫。記念堂の裏口。それから、普段は誰も借りない1本。
施設課の学生アルバイトになって、2年目になる。
シンポジウムの日は、アルバイトが2人つく。設営に1人。撤収に1人。
撤収の当番は、片づけが終わるまで鍵を預かったままでいい。
終わるのが何時になるかは、誰にもわからないからだ。
去年から、そうなっている。
彼女が、そうしましょうと言ったからだ。
来週の金曜。撤収当番の欄に、彼女は自分の名前を書いた。
大学からの知らせは、その日の昼に来た。
保護者の目の前で、人が4階から落ちた。大学は、それを「事故」と呼んだまま、2つのことを決めた。
当面のあいだ、夕方6時以降の学生の構内立ち入りを禁止する。
金曜の黒宮記念堂のシンポジウムは、予定どおり開かれる。学外の来賓が多いから、と理事会が決めた。
夜の大学は、教職員と、施設課と、来賓だけのものになる。
施設課の学生アルバイトは、学生ではなく、施設課の人間として数えられる。
彼女は、通知の画面を閉じた。
夕方、彼女は施設課の裏手を歩いた。
焼却炉は、塀沿いの暗がりにある。煉瓦と鉄でできた、低い箱のような建物だ。煙突が1本。投入口は古い型で、大人がかがんで入れる大きさがある。
鉄の扉には、外側に閂がついている。それと、南京錠。
毎朝7時に、施設課の誰かが火を入れる。中は確かめない。閂がかかっていれば、空だと思う。
売店で、まだ開けていないペットボトルの水を2本買った。
1本は、自分の分だった。
三好から写真が届いたのは、翌日の昼だった。
アルバム、見つかりました。部活の写真です
古いパソコンの前に、子どもが4人並んでいる。後ろの2人は男の子で、片方は三好だった。眼鏡が、顔に対して大きすぎる。
前の端に、女の子が2人。肩を寄せて、まっすぐこちらを向いていた。
2人とも、耳の上に、同じ黒いリボンのクリップをつけている。
高槻は、そのクリップに見覚えがあった。
椎名のスマホの中で、何度も見せられた。坂下の投稿の、膝を抱えた子。集合写真の、1人だけ笑っていない子。
片方は、はっきりした目元で、歯を見せて笑っていた。子どもなのに、目を引く顔だった。
もう1人は、素朴な顔だった。切りそろえた前髪に、小さな目。口の端だけで、控えめに笑っている。
隣の子と並ぶと、ほとんど目に入らない。
写真の下に、メッセージが続いていた。
写真見てて、思い出したことがあって
2人のノートの最後に、こう書いてありました
「7つ全部まわると、ねがいがかなう。20さいになったら、もうかなわない」
ねがいがかなう。
子どもの書く、ありふれたおまじないだった。
引っかかったのは、後ろの半分だった。
高槻は、もう一度写真を見た。
10年前、三好は6年生だった。2人は、その2つ下。10歳。
「……今年で、20歳か」
声に出してから、カレンダーに目をやった。12月だった。
7つのうち、もう4つ目まで来ている。残りは、3つ。
誰かが、このノートのとおりに7つをまわっている。
だとしたら、それは、願いをかなえるためだ。
20歳になったら、もうかなわない。
高槻は、写真を3人のグループに送った。
三好さんから
この2人、わかる?
先に返事をしたのは、椎名だった。
右、黒宮レイナ
喫煙所で会った子。クリップ同じ
少しして、白瀬からも来た。
左の子、日辻芽衣さんだと思う
文学部の同じ学年。一度だけ話したことがある
高槻は、少し間をあけてから打った。
七不思議、この2人がノートにまとめたものらしい
返事を待たずに、続けて打った。
7つ全部まわると、願いがかなう
ただし、20歳まで
2人とも、今年で20歳
既読が、2つついた。
先に返してきたのは、椎名だった。
20歳までって...誕生日が期日ってこと?
そういうことになるなと打った後、
少しして、白瀬から。
誕生日なら、聞けるかもしれない
黒宮さんのお母さんに
10年前にリボンをつけて笑っていた2人が、今は、同じ大学にいる。
偶然、と呼ぶには、数が揃いすぎていた。
高槻は、もう一度写真を開いた。
指で、左の子を広げる。
切りそろえた前髪。小さな目。口の端だけの笑い。
隣の子と並ぶと、ほとんど目に入らない顔だった。
なのに、さっきから、こっちばかり見ている。
理由は、自分でもわからなかった。
日曜の午後、白瀬は坂を上った。
黒宮家は、坂の上にあった。
古い屋敷だった。門から玄関までが長く、庭の木はどれも手入れされている。それなのに、家の中から音がしない。
呼び鈴を鳴らすと、しばらくして扉が開いた。
「……来てくれたのね」
黒宮さんは、少し遅れて笑った。
両手に、白い包帯が巻いてあった。
玄関の大きな姿見に、布がかけてあった。
居間に通された。お茶が出るまでに、長い時間がかかった。
「あの日は、ありがとう」
黒宮さんは、自分の包帯を見ながら言った。
「ずっと、手を握っててくれたでしょう」
白瀬は、首を振った。
それから、少しずつ話した。手の傷のこと。眠れているかどうか。食事のこと。
黒宮さんは、どの問いにも、少し遅れて答えた。
「先生がいないと、何を考えたらいいのか、わからなくて」
サイドボードの上に、写真立てがいくつも並んでいた。
式典らしい場所で、年配の男性と並んで笑っている男の人。
「主人よ」
黒宮さんが言った。
「玲奈が中学に上がった年に、病気で」
その横に、ランドセルの玲奈。その横に、中学の制服の玲奈。
そこから先の写真は、なかった。
「玲奈さんは」
白瀬が聞くと、黒宮さんは首を傾げた。
「どうしてるのかしらね」
責めている声ではなかった。本当に、知らない声だった。
「学校のことも、家のことも、全部、主人の弟に任せてきたから」
「弟さん」
「婿に入ったから、名字は違うけど。玲奈ちゃんのことは僕が見ますからって、お葬式のときから、ずっと」
黒宮さんは、湯呑みを両手で包んだ。包帯の上から。
「わたしは、何もしなくていいって」
白瀬は、湯呑みに口をつけた。お茶は、もうぬるかった。
「来週の木曜でね、あの子、20歳なの」
黒宮さんが、ぽつりと言った。
湯呑みを持つ手が、止まった。
20歳まで。
高槻のメッセージが、頭の中でもう一度光った。
来週の木曜。12月18日。
「何をあげたらいいのか、もう、わからない」
黒宮さんは、窓の外を見ていた。
帰り際、玄関で靴を履いていると、黒宮さんが後ろから言った。
ああそういえば、と黒宮さんが思い出したかのように続ける。
「あなた、祥桜の学生さんよね?主人の弟も、大学の先生なの。祥桜で。榊っていうんだけど、知ってるかしら」
靴べらが、指から落ちた。
白瀬は、それを拾った。
指先が、少しだけ冷たかった。
「……知っています」
声は、思ったよりも普通に出た。
「そう。やっぱり、有名な先生なのね」
黒宮さんは、嬉しそうに笑った。
白瀬は、靴べらを下駄箱の上に戻した。
「お邪魔しました。お茶、ごちそうさまでした」
頭を下げて、扉を閉めた。
外の空気は、乾いていた。
坂を下りながら、白瀬は『雪明かりの童話集』の五つ目を思い出していた。
ヘンゼルとグレーテル。
子どもを森に置き去りにしようと言い出したのは、継母だった。
親の顔をして、子どもを森に置いていく人。
玲奈ちゃんのことは、僕が見ますから。
あの人は、そう言ったのだ。
足が、止まりかけた。
次は、あの人だ。
白瀬は、立ち止まらずに、ポケットから携帯を出した。
指先がかじかんで、画面がうまく反応しない。
二度、打ち損じた。
三度目で、ようやく送信した。
黒宮さんの誕生日、来週の木曜。12月18日
叔父さんは、榊先生
次は、たぶん榊先生
翌日の昼、研究棟は、いつもどおり開いていた。
3階の、廊下の突き当たり。扉の前で、白瀬は一度立ち止まった。
去年の秋にも、ここに立った。
1度、2度。
3度目に、ノックした。
「どうぞ」
榊は、机から顔を上げなかった。
「……白瀬です」
ペンが、一瞬だけ止まった。
「ああ。君か」
「去年お借りしていた本を、お返しに来ました」
白瀬は、鞄から1冊を出して、机の端に置いた。ゼミの最初の週に、榊が貸してくれた古い書簡集だった。返しそびれたまま、1年が経っていた。
「わざわざ」
榊は、本に目もくれなかった。
「用はそれだけかね」
白瀬は、すぐには答えられなかった。
言うことは、坂を下りながら決めてきたはずだった。
「……構内のこと、ご存じですよね。食堂と、体育館」
榊は、ペンを持ったまま、短く息を吐いた。
「ああ」
面倒そうな声だった。
「警察に任せている。心配するな」
白瀬は、机の端に置いた本を見た。
表紙の角が、少し擦れている。
指先は、まだ冷たかった。
「次は、先生かもしれないと思って」
言ってしまってから、部屋の暖房の音が、急に大きく聞こえた。
笑い声。
「学生の噂だろう。君は昔から、そういう話を本気にする」
榊は、ようやく顔を上げた。
「くだらない。帰りなさい」
白瀬は、ドアノブに手をかけた。
振り向かずに言った。
「金曜のシンポジウムのあと、1人にならないでください」
返事はなかった。
扉を閉める直前に、もうひとつだけ言った。
「先生の講義が、好きでした」
扉を閉めた。
廊下を、まっすぐ歩いた。階段の踊り場まで来て、壁にもたれた。
膝が、少しだけ震えていた。
最初にレポートを褒めてくれたのも、あの人だった。
赤ペンで、余白に一行。「視点がいい」と。
去年の秋、相談窓口に持っていった紙にも、あの人の名前があった。
悲しいことも、あった。
けれど。
死んでほしいとは、思えなかった。
今日は、ちゃんと言えた。
言うべきことは、言った。
あとは、あの人が決めることだ。
白瀬のメッセージを、私は模造紙の前で読んだ。
12月12日。榊。
床に広げた模造紙に、日付を書き出していく。
10月2日。11月3日。11月21日。12月4日。
1か月。3週間。2週間。
間が詰まっていたのは、期限があったからだ。
18日まで、あと10日。残りは、3つ。
5段目の枠に、榊、と書き足した。
指で、枠をひとつずつたどった。
坂下。間宮。御影。榊。
夜の街に連れていった男と、女。母親を遠ざけた鏡。叔父。
全員、あの子のまわりの人だ。
それでも、まだ足りない。まわりにいた、というだけなら、ほかにも大勢いる。
私はスマホを取った。
こういうときにやることは、昔から決まっている。
大学のタグ。位置情報。事件の日付。
10月2日。
雨の昼の、中央食堂。広場の人だかりを、誰かが上から撮っていた。#祥桜 #やばい。傘の列。その端に、傘を差していない女の子がいる。茶色の巻き髪。耳の上に、黒いリボン。
11月3日。
祥桜祭の日。体育館の近くの屋台を撮った写真の奥。人の流れに逆らって立っている、黒い服の後ろ姿。拡大すると、髪の横に、小さな黒い点が2つ。リボンの形だった。
11月21日。
試験前の、24時間開放の自習室。夜明け前に、誰かが「徹夜明け」と上げていた。窓の向こうに、理化学館の通用口が見える。その手前の植え込みのそばに、同じ髪の、同じ影。
12月4日。
これは、写真を探すまでもなかった。
4時すぎ。講義棟の裏の喫煙所。私は、あの子と話している。
4階に鏡のある、あの講義棟の、すぐ下で。
4回とも。
あの子は、そこにいた。
まあ、ガラスには気をつけな。
喫煙所の声が、耳の奥でまた鳴った。
あれは、忠告じゃなかった。
予告だった。
私は、ペンを置いた。
犯人は、黒宮玲奈だ。
木曜の夜、3人で私の部屋に集まった。
床には、模造紙が広げたままになっていた。5段目の枠には、前に書いた「親?」の横に、私の字で、榊、と足してある。
「整理しよう」
高槻が、鉛筆を取った。
「7つ全部で、願いがかなう。期限は20歳」
余白に、20、と書いて丸で囲む。
「黒宮の誕生日は、来週の木曜。12月18日」
その横に、12/18。
「残りは、3つ」
私が言うと、高槻が5段目の枠を鉛筆の先で叩いた。
「5つ目は、焼却炉」
「童話は、ヘンゼルとグレーテル」
白瀬が、枠の中の「親?」を指でなぞった。
「黒宮さんのお母さん、言ってた。
お父さんが亡くなってから、学校のことも、家のことも、全部、弟さんに任せてきたって」
指が、榊、の字の上で止まった。
高槻が、「親?」の「?」に、鉛筆で線を引いた。
「継母は、きっと竈に入れられる」
白瀬が言った。
少し、誰も喋らなかった。
「それで、榊先生」
白瀬が続ける。
「明日、黒宮記念堂でシンポジウムがある。創立者の記念のやつ。先生が登壇する」
「6時以降は、学生は構内に入れない」
高槻が言った。
「シンポジウムは、予定どおりやる。夜の大学に、榊がいて、俺たちは入れない」
「明日だね」
私が言うと、2人とも黙った。それが、返事だった。
「白瀬は、シンポジウムに潜り込める?」
「一般聴講は、5時まで受け付けてる。入れる」
「じゃあ白瀬は、客席から榊を見張ってくれるか。俺は、焼却炉を見張る。塀の外なら、6時を過ぎてもいられる。あそこなら、何かあっても塀をよじ登れる」
「私は、玲奈を足止めする」
私は言った。
一拍、間があった。
「……黒宮さん?」
白瀬が聞いた。
私は、スマホを模造紙の真ん中に置いて、
見つけた写真を1枚ずつ開いた。
10月2日。11月3日。11月21日。12月4日。
聞き終えてから、高槻が言った。
「決めつけるなよ」
「決めつけてない。でも、もしそうなら、あの子が大学にいなければ、何も起きない。違ったとしても彼女が何か知っているのは確か」
高槻は、それ以上は言わなかった。
「それで、いつまで足止めすればいい?」
「榊が、研究棟に戻るまで」
高槻が言った。
「シンポジウムが終わって、来賓を送って、研究室に戻る。明かりがついたら、それで終わりにしよう」
高槻は、模造紙の端を指で押さえた。
「記念堂から研究棟までは、距離がある。榊が一人で動ける時間は、ほとんどない」
「わかった」
白瀬の声は、小さかった。
「明かりがついたら、知らせる」
2人が帰ってから、私は窓の外を見た。
大学のほうは、暗くて何も見えなかった。
帰り道、高槻は三好に電話をかけた。
「写真、ありがとうございました。左の子、日辻さんで合ってますか」
「日辻さん。……ああ、そうだ、その子です」
三好の声が、少し明るくなった。
「七不思議を集めてきたのは、ほとんど日辻さんでしたよ。黒宮さんは隣で読んで、笑ってた」
「どんな子でした」
「静かな子。生き物係で、理科室の水槽の世話をしてて」
三好は、少し考えた。
「理科の先生になるって、言ってたな」
電話を切ってから、高槻はしばらく写真を見ていた。
椎名は、黒宮だと言った。4回とも、現場の近くにいた、と。
筋は、通っている。
ただ、どうやったのかが、うまく思い描けなかった。
食堂の搬入口。体育館の地下倉庫。理化学館の準備室。どれも大学の裏側で、知っている人間にしか使えない場所だった。準備室の鍵は、事務室にしかない。
喫煙所でいつも1人でいるという子が、そこを全部、知っていたのか。
わからない。
わからないまま決めてしまうのは、高槻の性分ではなかった。
あの順番を知っているのは、黒宮だけじゃない。
一度だけ、もう1人の顔を見ておきたかった。
翌朝、高槻は理化学館へ向かった。
歩きながら、三好の言葉を思い出していた。
理科の先生になる、と日辻は言っていたという。
小学校の免許を取るなら、教職課程に理科の実験がある。
高槻は、歩きながら時間割を開いた。
金曜、1限。初等理科実験。
場所の欄には、理化学館とだけ書いてあった。
日辻なら、あの建物に入る理由がある。
廊下の曲がり方も、準備室の場所も、鍵を預かる事務室の位置も。
毎週、目にしていたはずだった。
高槻は、足を止めた。
画面を見たまま、写真の左側の子を思い出す。
静かな子、と三好は言った。
8時を少し過ぎていた。
立入禁止のテープは、もう外れていた。1階の廊下は乾いて、薬品と古い木の匂いだけが残っている。
生物学実験室の扉が、少し開いていて
窓際には、水槽が並んでいる。
その前に、女の子が1人いた。白衣を着て、空の水槽をひとつずつ洗っている。
「日辻さん?」
顔が上がった。
写真の中よりも背が高いが、あの頃と顔の印象は変わらない。
怪訝そうな表情
水面が凪ぐように、ただ静かだった。
「はい」
「2年の高槻です。黒宮さんのことで、少し」
「黒宮さん?」
芽衣は、スポンジを置いた。
けれど、水槽の向こうから出てはこなかった。
濡れた手を、丁寧にハンカチで拭っている。その間も、目は高槻から離れなかった。
高槻は、三好の写真を見せた。
「わあ」
さっきとは打って変わって柔らかい表情で画面を覗き込む日辻。
「懐かしい。三好先輩、まだ持ってたんだ」
「七不思議、日辻さんが集めてたって聞いて」
「ああ、あれは」
日辻は、少し照れたように笑った。
「近所の子とか、上の学年の子に聞いて回って。黒宮さんは隣で読んで、楽しんでくれて。それが嬉しくて、また集めて」
「子どもの遊びですよ」
高槻が怪談のことを聞くと、日辻の声が少しだけ弾んだ。
「6つ目の開かずの教室、うちの小学校に本当にあったんですよ。鍵がかかったままの部屋。中で誰か寝てるって、みんな言ってて」
日辻は、水槽の縁を指でなぞった。
「ここにもありますよね。講義棟の奥の、大講義室。ずっと閉まってるの」
「知らなかった」
「そうなんですか?」
日辻は、笑ったまま首を傾げた。
「黒宮さんとは、今も?」
「今は、あんまり」
日辻は、また水槽を洗い始めた。
「話さなくなっちゃって」
実習があるので、と日辻が言ったのは、10分ほど経ってからだった。
扉へ向かう。高槻の横は通らなかった。水槽の列の向こう側を、ゆっくり回っていった。
扉の前で、日辻は半身だけ振り返った。
「黒宮さんのこと調べてるなら」
声は、明るかった。
「ちゃんと見ててあげてください。あの子、今ひとりなので」
扉が、閉まった。
高槻は、洗いたての水槽の前に立っていた。
感じのいい子だった。
ただ、話しているあいだ、水槽を挟んだ距離が、一度も縮まらなかった。
2限は、高槻と同じ一般教養だった。
大教室の後ろのほうの席で、私はスマホを開いていた。昨日の夜に書きかけた、黒宮へのメールの下書きだった。
隣の椅子が引かれた。
高槻だった。鞄を床に置いて、そのまま背もたれに沈む。
「さっき、日辻さんに会ってきた」
前を向いたまま、高槻が言った。
「え」
思わず、声が大きくなった。前の列の何人かが振り返る。私は、首をすくめた。
「……いつの間に」
「朝。理化学館で、水槽洗ってた」
「なんで」
「顔、見ておきたかったから」
それだけだった。高槻は、机の上のペンの先をコツコツと鳴らす。
「感じはよかった」
少し間があった。
「よすぎるくらい」
「何それ」
「黒宮とは、今はあんまり話してないって」
ペンが、机の上をゆっくり転がっていく。
「なのに、帰り際に言われた。今ひとりだから、見ててあげてくださいって」
ペンが、机の端で止まった。
話していないのに、ひとりなのは知っている。
「日辻さんも、何か知ってるのかもしれない」
前のほうで、マイクの電源が入る音がした。
「昼、焼却炉のほう見てくる」
「暗くなる前に、一度ちゃんと見ておきたい」
それきり、高槻は前を向いた。
昼休み、高槻は施設課の裏へ回った。
今夜は、塀の外から見張ることになっている。塀の向こうに何があるのか、明るいうちに確かめておきたかった。
施設課の裏は、昼でも薄暗かった。
焼却炉は、塀の内側にある。学生は入れない。
通用門の格子越しに、中が見えた。
煉瓦と鉄でできた、低い箱のような建物だった。煙突が1本。投入口は古い型で、大人がかがめば入れる大きさがある。
鉄の扉の外側に、閂。それと、南京錠。
閂がかかっていれば、外からは中が見えない。
高槻は、そのまま施設課の事務所へ回った。
窓口にいたのは、作業着の年配の職員だった。
「焼却炉のことで、お願いがあるんですけど」
「焼却炉?」
「火を入れる前に、中を確認してもらえませんか」
職員は、少しだけ眉を上げた。
「確認って、何を」
「人が入っていないかどうか」
職員は、笑った。冗談だと思ったらしい。高槻が笑わないのを見て、笑いを引っこめた。
「閂がかかってれば、空だよ。わざわざ開けて見たりしないよ」
「閂は、外からかけられます」
職員は、しばらく高槻の顔を見ていた。
「……今はシンポジウムで、ごみが多くてね。いちいち開けてたら、仕事にならないんだ」
それから、少しだけ声をやわらげた。
「学生さんが心配することじゃないよ。ちゃんと見てるから」
さっき、開けて見たりしないと言ったのと、同じ口だった。
高槻は、それ以上は言わなかった。
事務所を出て、グループに打った。
焼却炉、施設課に頼んだけどだめだった
中は、見ないらしい
既読が、2つついた。
私は、メールの下書きを開いた。
昨日の夜から、何度も書いては消している。昔の写真を見つけました。見てほしいものがあります。
どれも、違った。
あの子が反応しそうな名前は、1つしか思いつかなかった。
日辻芽衣さんのことで、話したいことがあります。昔の写真もあります。今日の夕方、駅前で会えませんか。椎名
学内の名簿で調べたアドレスに、送った。
送信済みの表示が出る。
指先が、冷たかった。
画面が光った。
4時。駅前のファミレス
1分も、経っていなかった。
食いついた。
私は、スマホを握りしめた。
掌に、汗がにじんでいた。
金曜の午後2時、黒宮記念堂のホールは、7割ほど埋まっていた。
白瀬は、客席のいちばん後ろの端に座った。
出口が2つとも見える席だった。正面の扉と、舞台袖から控室へ抜ける通用口。
作業ベストの学生が何人か、袖を出入りしている。施設課のアルバイトだろう。誰も、客席のほうは見ない。
壇上に、榊がいた。
創立者、黒宮怜司について。
榊の声は、よく通った。冷たく磨かれた石のような声だった。
父の業績を、ひとつずつ並べていく。式典の写真が、スクリーンに映る。前列に、年配の男性と、若い男性。
膝の上で、スマホが震えた。
高槻からだった。
塀の外にいる。閂も南京錠もそのまま
白瀬は、画面を伏せた。
顔を上げると、壇上の榊と目が合った。
客席を見渡していた視線が、いちばん後ろの端で止まっている。
一拍。
榊は、少しだけ首を傾けた。
それから、笑った。
火曜日、研究室で一度も顔を上げなかった人が、今は、白瀬だけを見て笑っていた。
「創立者が何より大切にしたのは、学生の声でした」
視線は、外れなかった。
「声を上げる学生を、大学は守らなければならない。父はいつも、そう言っていました」
客席から、拍手が起きた。
榊は、拍手の中で、もう一度だけ白瀬のほうへ首を傾けた。
白瀬は、目をそらさなかった。
膝の上の指が、冷たくなっていた。
榊の視線が、ゆっくり客席の前のほうへ戻っていく。何事もなかったように、次のスライドが映った。
白瀬は、小さく息を吐いた。
正面の扉。通用口。壇上。
順番に、目を動かす。
通用口の前を、作業ベストの学生が1人、台車を押して横切った。
4時を少し過ぎて、膝の上でスマホが震えた。
椎名からだった。
玲奈、来た。ファミレスにいる
5時。拍手。
榊は来賓に囲まれて、通用口から控室のほうへ消えた。
最後まで、こちらは見なかった。
6時を過ぎると、職員が客席を回り始めた。
「学生の方は、ご退出をお願いします」
正面の扉を出るとき、白瀬は一度だけ振り返った。
通用口の向こうに、まだ明かりがついていた。
白瀬は、正門の向かいの歩道に立って、グループに打った。
大学、追い出された
榊先生、まだ記念堂から出てこない
正門の向かいで見てる
駅前のファミレスの窓際で、私は待っていた。
4時ちょうどに、玲奈が来た。
黒い服に、赤いリップ。茶色の巻き髪に、黒いリボンのクリップ。
外は細い雨が降っていたのに、傘を持っていなかった。髪の先が、少し濡れていた。
向かいに座って、メニューも見ずに言った。
「アイスティー」
それから、私を見た。
「で。あの子が何」
私は、スマホをテーブルに置いた。
玲奈は、しばらく画面を見ていた。
古いパソコンの前の、4人。肩を寄せた、2人の女の子。
「……どこで」
「パソコンクラブの部長だった人。三好さん」
「ああ」
玲奈は、画面に指を伸ばしかけて、やめた。
見ているのは、自分の顔ではなかった。隣の、素朴な顔のほうだった。
「この子は」
「昔の友達」
それだけだった。
画面の中の、隣の子の顔を、玲奈はまだ見ていた。
「七不思議のノート、2人でまとめてたって聞いた」
「……」
「日辻さんとは、今も」
「あの子の話は、もういい」
低い声だった。
怒っているのとは、少し違った。
玲奈は、スマホをテーブルの真ん中へ、指先で押し返した。
それから、ストローの袋を取った。
端から、爪で細く折っていく。
折り目が、ひとつ、ふたつ、増えた。
「あんたたち、叔父のことも調べてるんでしょ」
息が詰まった。
折る手は、止まらなかった。
「……どうして」
「母さんのとこに、女の子が来たって。祥桜の」
否定する言葉を探した。
見つからなかった。
アイスティーが来た。
氷が、からん、と鳴った。
玲奈は、口をつけなかった。
「玲奈ちゃんのことは僕が見ますって、父さんの葬式で言ったんだって。あの人」
他人の台詞を読むような、平らな言い方だった。
声は、静かだった。
「見てもらったことなんか、一度もない」
細く折った袋を、玲奈は指先でちぎった。
「自分の都合のいいように利用してただけ」
ちぎった袋を、もう一度ちぎる。
「父さんが残したもの。家も、お金も、全部あの人が預かってる。玲奈ちゃんにはまだ早いから、って」
「で、あたしがどこに行ったか。誰といたか。何を着てたか。全部、母さんに言うの。ほら、まだ任せられないでしょ、って」
「母さんは、あの人の言うことしか聞かないから」
紙の切れ端が、テーブルの上に溜まっていく。
「あの人が死んでも、あたし、泣かないと思う」
私は、何も言えなかった。
答えは、もう出ている気がした。
6時を過ぎて、スマホが2回、震えた。
白瀬と、高槻。
高槻:塀の外。煙突しか見えない。煙はなし
玲奈は、窓の外を見ていた。
それきり、何も話さなかった。私が何を聞いても、半分だけ答えて、残りは窓の外に流した。
7時を過ぎた。アイスティーの氷が、すっかり溶けていた。
8時すぎ、3人のスマホが、同時に震えた。
白瀬:研究棟に明かりがついた
戻ったみたい
記念堂の出口、見逃したかも
すぐに、高槻から。
了解。撤収しよう
私は、スマホを伏せた。
「今日は、ありがとう」
玲奈は、何も言わずに立ち上がった。
改札の前で、玲奈は一度も振り返らなかった。
黒いリボンが、人の波に消えた。
私は、大学まで歩いた。
正門の向かいの歩道に、白瀬がいた。マフラーに、顔を半分うずめていた。
しばらくして、塀沿いの暗がりから、高槻が出てきた。
3人で、研究棟の窓を見上げた。
3階の、廊下の突き当たり。明かりが、ついていた。
「何も起きなかった」
口に出してみて、ようやく実感が追いついてきた。
白瀬が、小さく息を吐いた。白い息が、ふわりとほどけて消えた。
「先生、ちゃんと戻ったね」
白瀬の声が、少しだけ柔らかかった。
「玲奈は?」
高槻が聞いた。
「ずっと、私の前にいた。4時から8時まで、一歩も動かなかった」
言いながら、自分でも驚くくらい、肩が軽くなっていた。
疑っていた子が、何もしていなかった。それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「叔父のこと、すごく嫌ってた。あと、ノートは自分が集めてたって」
高槻の顔が、少しだけ動いた。
「……三好さんと、逆だな」
「10年前の話だよ」
「そうだな」
高槻は、それ以上は言わなかった。
「間に合ったんだよ、今度は」
私が言うと、白瀬が、こくんと頷いた。
「帰ろう」
高槻は、首を振った。
「もう少し、焼却炉を見てる」
「明かり、ついてるじゃん」
「ついてるな」
高槻は、研究棟の窓を見上げて、少しだけ笑った。
「だから、もう少しだけ。念のため」
研究棟の明かりは、8時ちょうどにつけた。
鍵の束から、研究棟の1本を探した。3階の、あの人の部屋。机の上のものには、触らなかった。明かりだけをつけて、廊下に出て、扉を閉めた。
それから、記念堂に戻った。
来賓の最後の車が、正門を出ていった。
ホールの照明が、半分落とされた。
彼女は、作業ベストのまま、撤収の札をめくった。パネル12枚。長机8台。椅子は明日。
打ち上げの店の名前が、職員たちの口から何度か出た。駅前の、いつもの店。
あの人は、行かない。10年、一度も行っていない。
控室の明かりが、まだついていた。
彼女は、在庫表を持って扉を叩いた。
「すみません。搬出のパネルの数が、合わなくて」
あの人は、面倒そうに顔を上げた。
彼女の顔は、見なかった。
施設課のアルバイトの顔を覚えている教員は、いない。
資材置き場は、記念堂の裏口から、塀沿いに歩いて3分だった。
冷えますね、と彼女は言った。
1本目の水を、差し出した。
あの人は、礼も言わずに受け取った。
台車は、思っていたより重かった。
塀の内側は、暗かった。煙突が、空より少しだけ黒い。
投入口の扉を、開ける。
詰所の裏から持ってきたポリタンクを傾けて、段ボールの上に、灯油を回しかける。
閉める。
閂を、下ろす。
南京錠を、かける。
それから、施設課の詰所の窓を叩いた。
「撤収のごみ、全部入れておきました。閂もかけてあります」
「おう、助かる。お疲れさん」
詰所の中は、ストーブで暖かそうだった。
通用門を出て、塀沿いの暗がりで、彼女は2本目の水の封を切った。
少しだけ、飲んだ。
冷たかった。
9時を回ったころ、施設課の古川は、詰所のストーブから腰を上げた。
明日は土曜で、朝の当番がいない。
月曜の朝まで置いておくには、今日のごみは多すぎた。シンポジウムの撤収で、段ボールと紙の束が山ほど出ている。
撤収のアルバイトの子が、もう全部入れてくれたと言っていた。閂もかけてある、と。
懐中電灯を持って、塀の内側へ回った。
閂は、下りていた。南京錠も、かかっている。
いつもどおりだった。
古川は、横の操作盤の蓋を開けて、点火のスイッチを入れた。
低い音がして、炉の奥で火が回り始める。煙突の先から、白いものが細く上がっていく。
少しだけ、灯油の匂いがした。
詰所のストーブの匂いが、服に染みついているのだろう。
しばらく、音を聞いていた。
いつもの音だった。
燃え移るまでには、少し時間がかかる。いつも、そうだ。
手が冷えてきた。
古川は、操作盤の蓋を閉めて、詰所に戻った。
ストーブの前に座って、つけっぱなしのテレビの音量を、ひとつ上げた。
夜の煙は、見えない。
煙突の先が赤くちらついているのに気づいたのは、9時を15分ほど過ぎてからだった。
2人を帰してから、1時間が経っていた。
高槻は、植え込みの陰で顔を上げた。
息が止まった。
研究棟を振り返る。3階の窓は、まだ明るかった。
ごみだ。シンポジウムのごみが多い、と窓口の職員も言っていた。
榊は、研究室にいる。明かりがついたら、それで終わり。
煙突を見上げたまま、そう言い聞かせた。
火の粉が、ひとつ、夜に舞った。
塀の向こうから、音がした。
鳥かと思った。もう一度、した。
言葉にはなっていなかった。喉の奥から押し出されたような、長く、引きずる音。鉄の壁に跳ね返って、くぐもったまま、夜の中に漏れてくる。
それに、内側から鉄を叩く音が重なった。
高槻は、走っていた。
塀に立てかけてある足場板に、足をかける。煉瓦の角に指をかけて、体を引き上げる。
内側の暗がりへ飛び降りた。膝に、鈍い衝撃が走る。
焼却炉の継ぎ目が、赤く光っていた。熱が、顔を叩いた。
閂を掴む。熱くて、指が弾かれた。袖を引っ張って、もう一度。袖越しでも、手のひらが焼ける。動かない。南京錠が、閂を噛んでいる。
「聞こえますか!」
扉を、拳で叩いた。
中から、叩き返す音がした。
1回。
2回。
片手でスマホを出して、施設課の番号を探す。指が、うまく動かない。
「はい、施設課」
「焼却炉に、人がいます。火を止めて、鍵を。今すぐ」
「は?」
「中にいる!」
電話の向こうで、椅子が倒れる音がした。
高槻は、扉を叩き続けた。
叩き返す音は、もう、しなかった。
声も。
懐中電灯の光が、揺れながら近づいてくる。作業着の男が、操作盤に飛びつく。炉の奥の唸りが、止まる。
南京錠が外れる。閂が、引き抜かれる。
投入口の扉が、開いた。
懐中電灯の光が、中を照らして、止まった。
男は、声を出さずに、一歩、後ずさった。
赤く残った火の中に、人の形をしたものがあった。
駅へ向かう途中で、高槻から電話が来た。
何を言っているのか、最初はわからなかった。
私と白瀬が戻ったとき、通用門の前には、もう赤い光が回っていた。
高槻は、通用門の格子の前にしゃがみこんでいた。
両手が、震えていた。手のひらが、赤く腫れていた。
「声が、した」
高槻は、それしか言わなかった。
白瀬は、研究棟を見上げていた。
3階の窓は、まだ明るかった。
「明かり、ついてたよね」
「ついてた」
あの明かりがついたら、もう大丈夫だと。そう決めたのは、私たちだった。
白瀬が、小さく言った。
「言ったのに」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
1人にならないでください、と言った相手にか。
それとも、自分にか。
坂下は、冷凍庫で見つかった。
間宮は、体育館の地下で。
柏木は、声をなくした。
御影は、私たちの目の前で、4階から落ちた。
そして、今日。
また、助けられなかった。
日付が変わった。
12月13日。
残りは、2つ。
黒宮玲奈が20歳になるまで、あと5日。
第七章
図書室は、いつも少しだけ埃の匂いがした。
窓際の、いちばん奥の机。夕方の光が、床に長い四角を落としている。
2人で1冊の本を開くとき、玲奈は右側に座った。あの子は左。頁をめくるのは、いつもあの子だった。
布張りの表紙に、銀色の雪の結晶。『雪明かりの童話集』。
「次、どれにする?」
あの子が、目次を指でなぞる。
「悲しくないやつ」
「ないよ、そんなの」
あの子は笑って、マッチ売りの少女の頁を開いた。
雪の夜。売れないマッチ。壁のくぼみで、1本ずつ擦る女の子。
最後の頁に近づくと、玲奈は目を逸らした。知っている。この子は、朝になったら冷たくなっている。
「ここ、変えていい?」
あの子が言った。
「どうやって」
「マッチを買わなかった人たちが、寒い目に遭うの」
あの子は、何も書いていない頁の余白に、鉛筆で小さく書き足した。
おしまい。さむいのは、かわなかったひとたち。
「それ、ずるい」
「ずるくないよ。この子、何も悪いことしてないもん」
玲奈は、笑った。
あの子と読むときだけ、悲しい話は怖くなかった。
あの子が、結末を変えてくれるから。
「じゃあ、次」
あの子が、頁をめくる。
赤い靴。人魚姫。白雪姫。
頁をめくる音が、少しずつ遠くなる。
夕方の光が、四角いまま、ゆっくり暗くなっていく。
「玲奈」
あの子が、呼んだ。
「眠っていいよ」
頁が、めくれる音がした。
柔らかかった。
頬の下にあるのが床ではなく、洗いたての布だと気づくまで、少しかかった。石鹸の匂い。乾いた日向の匂い。
玲奈は、目を開けた。
暗かった。けれど、怖い暗さではなかった。天井が遠い。窓のあるはずの方向に、厚い布が垂れている。
寝台に寝かされていた。薄い毛布が、肩まで掛けてある。
枕元に、水のボトルが3本。紙袋の中に、ちぎりやすい丸いパン。
寝台のまわりに、薔薇が置いてあった。棘を落としていない、細い枝のまま。
茨みたい、と思った。
壁際で、小さな白い機械が、シュッ、と鳴った。
甘い霧が、ほんの少し、こちらへ流れてくる。
瞼が、重くなった。
「起きた?」
暗がりの奥から、声がした。
作業ベストの、細い影。顔は見えない。見えなくても、わかった。
影は、寝台の脇にしゃがんで、毛布の端を直した。
「眠れる森の美女はね、死なないの」
玲奈は、口を開こうとした。舌が、うまく動かない。
「起きたら、全部終わってる」
影は、立ち上がった。
「玲奈の願い事、かなってるよ」
扉の閉まる音がした。
やめて、という言葉だけが意識の中に消えた。
月曜の朝、その投稿は、誰が書いたのかわからないまま流れはじめた。
#祥桜の七不思議。土曜から伸び続けていたタグの、いちばん新しいところに。
祥桜大学の七不思議
1 中央食堂の冷凍庫。中から、叩く音がする。
2 体育館の地下。赤い靴音がする。
3 理化学館の準備室。水の跳ねる音がする。
4 講義棟の踊り場。夕方、鏡になる窓がある。
5 焼却炉。夜中、中から声がする。
6 講義棟の3階、開かずの教室。夜になると、女の人の呻き声がする。扉を叩く音も。
7 記念堂の時計塔。階段を夜中に数えると、13段ある。
それが、少しずつ、広まりはじめた。
月曜の昼、私たちは高槻の部屋にいた。
大学は、休校になっていた。
高槻の両手には、包帯が巻いてあった。焼却炉の閂を掴んだ手だった。誰も、そのことには触れなかった。
床に広げた模造紙の、5つの枠。坂下。間宮。柏木。御影。榊。
6つ目と7つ目だけが、空いている。
「ずっと、引っかかってるの」
私は、5つの枠を指でたどった。
「坂下も、間宮も、御影も、榊も。全員、黒宮さんのまわりの人。動機があるのは、黒宮さんしかいないって、思ってた」
金曜の夜、榊が焼却炉に入れられたころ、玲奈は私の目の前にいた。溶けていくアイスティーの氷を、見ていた。
「犯人じゃないなら、なんで黒宮さんが、こんなに真ん中にいるの」
高槻が、包帯の手で模造紙の端を押さえた。
「向きが、逆なんじゃないかと俺は思っている」
「逆?」
「5人とも、黒宮を傷つけた側の人間だ。黒宮が罰してるんじゃない。誰かが、黒宮のために罰してる」
部屋が、静かになった。
白瀬が、鞄から童話集を出した。6つ目の頁を開く。茨に閉ざされた城。眠る姫。
「眠れる森の美女だけは、ほかの話と違うの」
白瀬は言った。
「お姫様には、死ぬ呪いがかけられてた。それを、もう1人の魔女が、100年の眠りに書き換えた」
「眠りは、罰じゃない」
「呪いから、守るための眠り」
白瀬は、頁に指を置いたまま顔を上げた。
「全部、誰かのためにやっているのなら」
指先が、眠る姫の挿絵の上で止まる。
「きっと、眠らされるのは、その人のため」
言い終えるより早く、私はスマホを出していた。
考えるより先に、指が動いていた。
インスタのDMを開く。
黒いリボンのクリップのアイコン。
焼却炉の騒ぎの翌朝、土曜の朝に、知らないアカウントから届いていたものだった。
叔父のこと、母から聞いた
あんた、足止めしてたんでしょ?
返せなかった。
あなたを犯人だと思って、一晩引き止めていました。そんなこと、書けるわけがなかった。
土曜の夕方に、もう2通。
返事、まだ?
ちょっと出てくる。帰ったら聞くから
私が返したのは、土曜の夜遅くだった。犯人だと思って引き止めたこと。ごめん、と。
その「ごめん」の下に、既読の文字がない。
日曜も。今朝も。
「答えを、あんなに急かしてた子なのに」
私は、2人に画面を向けた。
白瀬が、自分のスマホを出した。
「念のため、お母さんに電話してみる」
呼び出し音が、3回鳴った。
「……はい」
黒宮さんの声は、少し遅れて届いた。
「白瀬です。このあいだ、お邪魔した」
「ああ」
白瀬が、スピーカーに切り替えた。
「玲奈さんは、ご在宅ですか」
少し、間があった。
「土曜の夕方に、出かけたきりなの」
私は、息を止めた。
「あの子、夜遅くなっても、帰ってはきてたのよ。夜中でも、朝方でも」
黒宮さんの声が、少しだけ細くなった。
「2日も帰ってこないのは、初めて」
「探さないと」
白瀬が言いかけた。
電話の向こうで、黒宮さんが黙った。
それから、穏やかな声で言った。
「……追いかけなくていいの。先生が、そう言ってたから」
その声が、少しだけ揺れていた。
自分でも、その言葉を信じきれていない声だった。
その先生は、もういない。
白瀬は、ありがとうございました、とだけ言って、電話を切った。
誰も、すぐには喋らなかった。
「6つ目は、開かずの教室」
高槻が、模造紙の空いた枠を見た。
「入ると眠って、目を覚まさない」
「黒宮さんは、どこかの開かずの教室で、眠らされてる」
私は言った。言いながら、喉が冷えた。
「でも、うちの大学に、そんな教室あったっけ…?」
誕生日の木曜まで、あと3日だった。
そのとき、高槻のスマホが鳴った。
高槻は、画面を見たまま動かなくなった。
「……七不思議が、回ってる」
画面を、こちらに向ける。
今朝の投稿だった。7行の怪談。もう、数千回、回っていた。
高槻の指が、6行目で止まった。
講義棟の3階、開かずの教室。
「日辻さんが、言ってた」
高槻は、画面から目を離さなかった。
「理化学館で。講義棟の奥の大講義室、ずっと閉まってるのって」
「俺は、そんな部屋があることも知らなかった」
白瀬が、黙った。
私も、何か言いかけて、やめた。
玲奈を眠らせたのが誰なのか。考えれば、届きそうだった。
でも、今は、その時間がなかった。
「とにかく、黒宮を探す」
高槻が、立ち上がった。
沈むたびに、夢が少しだけ先へ進んだ。
病院の、白い廊下。
中学1年の、春だった。
ベッドの上の父は、ずいぶん小さく見えた。それでも、枕元には、いつもの文庫本が伏せてあった。
「玲奈」
父が、呼んだ。
「この前の話の、続きだけどな」
夜更けまで、2人で話していた本の話だった。主人公が、最後にどこへ行くのか。
「あれは、きっと」
父は、そこで少し笑った。
続きは、なかった。
父の手は、最後まで温かかった。
葬儀は、黒宮家の行事として静かに進んだ。叔父が、全部を仕切っていた。母は、人前で一度も泣かなかった。
玲奈にも、泣く場所がなかった。
家に帰ると、台所の鍋が、火にかかったまま止まっていた。
その日から、家で名前を呼ぶ人がいなくなった。
その夜、初めて、あの子に電話した。
何を話したかは、覚えていない。
あの子は、ずっと黙って聞いていた。
浮かぶ。
ボトルに手を伸ばした。指が、うまく曲がらない。キャップを歯で開けて、水を飲んだ。
眠ったら、だめだ。
シュッ、と機械が鳴った。
母が、鏡の前に座っている時間が、少しずつ長くなった。
「先生」の会から帰ってくると、母は使い込んだノートを開いて、何かを書き写した。
娘のことを、「あの子」と呼ぶようになった。
わざと遅く帰って、玄関で大きな音を立てた夜があった。
叱られたかった。
廊下の奥の扉は、最後まで開かなかった。
次の朝、母はいつもの優しい声で、おはよう、と言った。
中学3年の冬、祖父が死んだ。
焼香の列のいちばん前に、叔父が立っていた。
「玲奈ちゃんのことは、僕が見ますから」
大人たちが、ほっとした顔で頷いた。黒い服の背中が、いくつも、いくつも。
肩に置かれた叔父の手が、冷たかった。
その夜も、あの子に話した。
あの子は、最後に同じことを言った。
「玲奈は、悪くない」
浮かぶ。
寝台から、足を下ろした。床が、遠い。
扉まで、這った。
叩いた。
あの子の名前を呼ぼうとした。
舌が、回らなかった。喉から出たのは、名前の形をしていない、長い音だけだった。
もう一度、叩いた。
シュッ、と機械が鳴った。
大学までの坂を、3人で駆け上がった。
途中で、高槻がスマホをこちらに向けた。
今朝の投稿の、6行目。その下に、返信が伸びていた。
土曜の夜、サークルの片付けで講義棟に残ってたけど、上のほうからなんか聞こえた。風かと思った
>>うちの寮の子も聞いたって。日曜の夕方
3階って工事中で入れないとこだろ
警備に言ったら、工事の機械の音ですって
機械が、扉叩く?
休校だし、誰か見てきてよ
いちばん新しい返信は、10分前だった。
誰も、何も言わなかった。歩幅だけが、大きくなった。
休校の日でも、通用門は学生証で開く。
カードリーダーが、短く鳴った。
構内には、誰もいなかった。並木の向こうに、講義棟の影が見えた。
3階まで、階段を駆け上がった。
踊り場に、「工事中につき立入禁止」の札とコーンが置かれていた。高槻が、コーンを脇へよけた。
廊下は、暗かった。工事中の養生シートが、窓を塞いでいる。
突き当たりに、大きな扉があった。
大講義室。
扉の前で、高槻が足を止めた。
音がした。
扉の向こうから。
言葉にはなっていなかった。喉の奥から押し出されたような、長く、細い声。
それから、内側から扉を叩く、弱い音。
1回。
間があって、もう1回。
女の人の、呻き声だった。
うだるような夏の暑い日。
大事なお客様だ。失礼のないように
叔父からそんな連絡が届く。
低い音。甘い煙。黒いカーテンの奥のソファ。銀紙の菓子。
グラスの底に、白いものが沈んでいた。
天井が、傾いた。
体全体が重たい。
息苦しい。
震える指で、ひとつだけ番号を押した。
声は、出なかった。
カーテンの揺れる音。
「玲奈」
あの子の声。
鈍い音。肩を抱えられる。緑の非常口の灯り。
鉄の階段。湿った風。手すり。
手首を、掴まれた。
振りほどいた。
声が、夜に消えた。
ヒールが片方、脱げた。
始発前のベンチ。
握られた手が、震えていた。どちらの手かは、わからなかった。
空が、白くなっていく。
「違う世界に行けたら、ここよりマシかもね」
冗談のつもりだった。
あの子は、笑わなかった。
秋。
雨の昼。食堂の冷凍庫から、男が見つかった。
傘も差さずに、人だかりの端に立った。
マッチ箱を握っていたらしい、という噂が流れてきた。
図書室の、余白の字が浮かんだ。
おしまい。さむいのは、かわなかったひとたち。
次は、体育館だ、と思った。
順番を決めたのは、あの子だった。隣で読んでいたのは、玲奈だった。
祥桜祭の日。人の流れに逆らって、体育館のまわりを歩いた。
あの子は、見つからなかった。
赤いヒールが、片方だけ見つかった。
理科室の、水槽。
夜明けまで、理化学館の植え込みの陰にいた。準備室の窓は、最後まで暗いままだった。
水の音は、聞こえなかった。
12月4日。4時44分。
講義棟の裏で、煙草に火をつけて、4階の窓を見上げていた。
止めたかった。
それでも、誰にも言えなかった。
言えば、あの子がいなくなる。
あの夏の夜のことも、全部、あの子が1人で背負うことになる。
喫煙所で、椎名という子に言えたのは、一言だけだった。
ガラスには、気をつけな。
浮かぶ。
扉に、額をつけていた。
指先で、髪のクリップに触れた。黒いリボン。白い結晶。
見つけてくれたのは、いつも、あの子だった。
じゃあ、と思った。
あの子のことは、誰が見つけるの。
扉の向こうで、たくさんの足音がした。
誰かが、扉の鍵を回していた。
ガンッガンッガンッ
高槻の渾身のタックルで扉が開くと、
甘い匂いが流れ出してきた。
「吸うな」
高槻が、袖で口を覆った。白瀬が窓へ走って、厚いカーテンを引き開ける。窓を開けると、冷たい空気と、遠くの人の声が入ってきた。
扉のすぐ内側に、誰かが倒れていた。
黒い服。長い巻き髪。耳の上に、黒いリボンのクリップ。
その奥に、寝台があった。白いシーツ。薄い毛布。枕元に、水のボトルとパンの袋。まわりを、棘のついた薔薇が囲んでいる。
壁際の小さな機械が、シュッ、と鳴った。高槻がそれを掴んで、コードを引き抜いた。
私は、床に膝をついた。肩を掴んで、揺すった。
「黒宮さん」
返事はない。
頬に触れた。冷たかった。
「黒宮さん…お願い」
肩を揺する。長い巻き髪が、床の上で力なく揺れた。
「目を開けて」
声が、勝手に大きくなった。
「黒宮玲奈!」
名前を呼んだのは、たぶん、はじめてだった。
そのとき、まつげが、小さく震えた。
一度。
それから、もう一度。
薄く、目が開いた。
焦点の合わない目が、私たちを順番に見て、それから、誰もいない扉の外を見た。
唇が、動いた。
「……芽衣を」
かすれた声だった。
「芽衣を、助けて」
高槻が、動きを止めた。
講義棟の奥の、大講義室。そんな部屋があることを、あの子は知っていた。
水槽を挟んだ距離が、一度も縮まらなかったこと。
今ひとりだから、見ててあげて、と言った声。
白瀬は、寝台の脇に立っていた。
水のボトル。ちぎりやすいパン。端を直された毛布。
「殺すつもりは、なかったんだ」
小さな声だった。
「最初から。この子だけは」
3人とも、もう、わかっていた。
祥桜大学にまつわるSNSは、朝から荒れていた。
通知の数字が、見る間に増えていく。
その中心に、ひとつの投稿があった。
わたしは、祥桜大学文学部2年の、日辻芽衣です。
この夏から、この大学に関わって亡くなった5人と、声を失った1人について、わたしがしたことを書きます。
朝比奈恭一は、薬で動けなくした女の子に、手をかけようとしました。なので、高い部屋から落としました。
坂下悠真は、家に帰れない女の子の弱みにつけこみ、心が凍てつくような場所へ連れていきました。なので、凍死させました。
間宮翔子は、やめたいと言った女の子を無理やり働かせ続けました。止まれないまま、暗い階段から足を踏み外させました。
柏木透は、相談窓口に来た学生の声を無かったことにし、彼らをより困窮させました。なので、声を奪いました。
御影俊成は、親を洗脳し、子供を蔑ろにするよう仕向けました。なので、窓から落としました。
榊光敏は、この人たちを大学に引き入れました。人をもののように扱い、親族までも利用した榊を私は許せません。なので、竈で焼きました。
講義棟の大講義室にいる人は、わたしが眠らせました。あの人に、罪はありません。
全部、わたしがしました。
責任は、すべてわたしにあります。
償いは、わたしが自分でします。
投稿は、もう何千回も共有されていた。
書かれた名前の下に、引用が連なっていく。
学内の掲示板も、卒業生のグループも、同じ話題で埋まっていた。
芽衣の携帯が鳴ったのは、夜中の1時を過ぎたころだった。
玲奈からだった。
「玲奈?」
返事は、なかった。
低い音楽が、腹の底に響いていた。グラスが触れ合う音。知らない男の笑い声。
その奥で、玲奈の息がしていた。浅くて、速い。
言葉になりかけて、ならない音。
何かが倒れる音がして、電話は切れた。
かけ直した。出なかった。
もう一度。出なかった。
芽衣は、地図のアプリを開いた。
高校1年の冬、玲奈が初めて夜の街から電話してきた日に、2人で位置情報を共有した。
どこにいても、わたしが見つけるから。
子どものころと同じことを、そのとき、もう一度言った。
小さな点は、繁華街の外れの、雑居ビルの上で止まっていた。
芽衣は、何も考えず部屋を飛び出した。
エレベーターの扉が開くと、低い音が腹に響いた。
入口で、千円札を2枚渡した。誰も、芽衣の顔を見なかった。
フロアは、暗かった。光の筋が、人の頭の上を行き来している。甘い煙の匂いがした。
位置情報の点は、フロアのいちばん奥を指していた。
黒いカーテンの前に、店員が1人立っていた。カウンターから呼ばれて、その場を離れた。
芽衣は、カーテンをくぐった。
ソファの席だった。
低いテーブルの上に、開けたばかりのボトルと、銀紙に包まれた菓子が散らばっていた。白い粉の残った小皿。飲みかけのグラスが、2つ。
ソファの上に、男の背中があった。
白髪の混じった後頭部。仕立てのいい紺のジャケット。ソファに片膝をついて、何かの上に身をかがめている。
その肩の下から、細い手が、だらりと垂れていた。
クッションの上に、茶色の巻き髪が広がっていた。耳の上に、黒いリボンのクリップ。
体が反射的にテーブルのボトルを掴んで振り下ろす。
鈍い音がして、男がソファから床に崩れた。
ボトルは、割れなかった。
男は、呻きながら頭を押さえていた。目が、焦点を探している。
芽衣は、テーブルを見た。
白い粉。飲みかけのグラス。
その粉を、飲みかけのグラスに落とす。
指先が震えて、縁に少しこぼれた。
男が顔を上げた。まだ、目が合わない。
芽衣は、その顎を片手で掴んだ。
グラスを、唇に押しつける。
傾けた。
流しこんだ瞬間、鼻をつまんだ。
男の喉がなり、ほとんど体内に流し込まれる。
男がむせた。
「……何を、するんだ」
濁った声だった。男が、床に手をついて、起き上がろうとする。
芽衣は、玲奈の腕を肩に回した。
「立って」
玲奈の膝が、崩れかけた。それでも、立った。
カーテンの奥に、緑色の非常口の灯りがあった。
鉄の扉を押し開けると、外階段だった。
湿った夜風が、汗を冷やした。6階分の、狭い鉄の段が、下の路地まで折り返している。
玲奈の足が、もつれた。ヒールが片方、段の隙間に引っかかって脱げた。
拾わなかった。
背後で、扉が叩きつけられるように開いた。
「待ちなさい」
壁に手をつきながら、すごい勢いで男が追ってくる。
狭い踊り場で、男の手が、玲奈の手首を掴んだ。
玲奈の体が、後ろへ引き戻される。
酒と、血の匂いがした。
芽衣は、玲奈の肩を抱いたまま、男の指を引き剥がそうとした。
玲奈が、腕を振った。
もう一度。
男の指が、外れた。
外れた勢いのまま、男の体が、後ろへ泳いだ。
さっき飲んだものが、もう回り始めていた。足が、ついてこない。
背中が、手すりにぶつかった。
手すりに仰向けに寄りかかるようになった男。
玲奈を背中に回しながら、ふっと浮いた足を掴んだ。
一気に上まで持ち上げる
伸ばした手は、何も掴まなかった。
声は、すぐに夜の中へ消えた。
風の音と、遠くの低い音楽だけが、残った。
始発前のベンチだった。
芽衣は、上着を脱いで玲奈の肩にかけた。
玲奈は、受け取ったまま袖に腕を通さなかった。ただ、襟を指でつまんでいた。
玲奈の足は、片方だけ裸足だった。
夜明け前の冷たさに、爪先が小さく震えている。
芽衣の手も、まだ震えていた。
「……あたしが、やった」
玲奈が言った。
「違う」
芽衣は、玲奈の手を握った。
「わたしが、やった」
玲奈は、何も言わなかった。
線路の向こうで、空が白みはじめる。
「違う世界に行けたら、ここよりマシかもね」
10年前の、図書室と同じ言葉だった。
あのときと同じ声だった。
ただ、あのときよりずっと、擦り切れていた。
2日後、ニュースが流れた。
祥桜大学の朝比奈副学長、繁華街のビルの非常階段から転落死。体内からアルコールと薬物の成分。来月の学長選に立候補を表明していた。警察は事故の可能性が高いとみて調べている。
学長選の候補は、2人だった。
もう1人の名前を見て、芽衣は、画面から目を離せなくなった。
榊。
その日の午後、芽衣は研究棟の5階にいた。
扉には、「榊」と書かれた札が掛かっていた。
ノックをすると、よく通る声が、どうぞ、と言った。
榊は、机から顔を上げなかった。
「黒宮玲奈さんのことで、お願いがあって来ました」
ペンが、止まった。
「玲奈を、黒宮の家から出してあげてください」
芽衣は、鞄から紙を出して、机の端に置いた。駅から歩いて10分の、古いアパートの間取り図だった。
「わたしと一緒に暮らせるように。部屋は、もう探してあります。家賃は、わたしが払います」
榊は、間取り図を見なかった。
芽衣の顔を、初めて見た。
それから、笑った。
「君は....優しいね」
榊は、引き出しを開けた。
1枚の写真を、間取り図の上に置いた。
ビルの裏口の、防犯カメラの静止画だった。非常階段の下から路地へ出ていく、女の子が2人。片方は、裸足だった。
「だが、あの子はどこへ行っても、ここへ戻ってくるよ」
芽衣は、息ができなかった。
「朝比奈くんは、来月の学長選に出るはずだった」
榊は、窓の外を見た。
「写真が何枚か撮れれば、それで十分だったんだがね。あの子の噂と一緒に、少し恥をかいてもらうだけで」
指先で、静止画の端を、そっと揃えた。
「よくやってくれた」
机の上で、2枚の紙が、エアコンの風に揺れていた。
「あと半年で、あの子は20歳だ。黒宮のものは、全部あの子の名前になる」
榊は、ペンを取り直した。
「判を押す場所を教えてやれば、あの子は押すよ。これがあるかぎりはね」
「録音しているなら、好きにしなさい。困るのは、どちらかな」
研究棟を出ると、夕方の空が、まだ明るかった。
手のひらに、爪が食いこんでいた。いつから握っていたのか、わからなかった。
よくやってくれた。
その声が、耳から離れなかった。
あの夜、玲奈をあの部屋へ行かせたのは、あの人だった。
父親を亡くした夜から、玲奈の周りで起きたことは、全部、あの人の机の上で決まっていた。
母親も、家も、居場所も。
あの夜も。
あの子はどこへ行っても、ここへ戻ってくるよ。
もうひとつの声が、重なった。
ポケットの中で、間取り図の角が、指に当たった。玲奈の帰る場所を、もうひとつ作れば、それでいいと思っていた。
どこへ行っても、戻ってくる。
どこかで、聞いたことのある話だった。
子どものころ、図書室で、玲奈と2人で読んだ。
森に置いていかれた兄妹が、白い小石を落としながら歩いて、家まで帰ってくる話。
玲奈は、そのページで本を閉じた。
「なんで、帰るの」
捨てた親のいる家に、どうして、小石をたどってまで帰るのか。
芽衣は、答えられなかった。
小石を撒いていたのは、玲奈ではなかった。
あの人が、帰り道を、ずっと用意していた。
あの夜の、テーブルの上を思い出した。
銀紙に包まれた菓子。開けたばかりのボトル。
甘いものを並べて、子どもを呼びこむ家。
グレーテルは、魔女を竈に押しこんで、兄の手を引いて家に帰った。
芽衣も、玲奈の手を引いて、あの階段を下りた。
けれど、帰った家には、2人を森に置いていった親がいる。
物語は、そこで終わる。親は、何の罰も受けない。
魔女なら、もう竈に入った。
次に入るのは、親のほうだ。
20歳まで、あと半年。
子どものころに決めた約束は、20歳になったら、もう効かない。
あの人の計画も、20歳で終わる。
叶えられるのは、今しかなかった。
ポケットの中で、間取り図が、くしゃりと潰れた。
芽衣は、その日に決めた。
「これ、自白じゃない」
やまない通知音に開いたSNSは日辻芽衣の告発文の話題で溢れかえっていた。
償いは、わたしが自分でします。
その一文だけ切り取ると
「遺書だ」
高槻が、私の思っていたことを言ってくる。
七不思議の一覧を見せてくる。
「1から5は、被害者5人と重なる」
高槻の包帯の指が、行をたどる。
「6は、黒宮」
「7は」
誰の名前も、入っていなかった。
場所だけが、はっきり書いてあった。
記念堂の時計塔。階段を夜中に数えると、13段ある。
「償いは、わたしが自分でします」
白瀬が、投稿の最後の行を読んだ。
「7つ目は、幸福な王子。自分の体から、金も宝石も剥がして配って、最後に、ひとりで倒れる話」
白瀬は、顔を上げた。
「7つ目は、日辻さん自身」
床の上で、玲奈が、身じろぎした。
肘をついて、体を起こそうとする。腕が震えて、一度、崩れた。
「まだ、動かないほうが」
言いかけた私の袖を、玲奈が掴んだ。
指に、力はなかった。掴んだというより、触れただけだった。
それでも、離さなかった。
もう一度、肘をつく。私は、その背中に腕を回した。
引き起こして、最前列の机の脚に、背中を預けさせる。
それだけで、玲奈の息が上がった。額に、汗が浮いている。
首が、重そうに前へ傾いた。
「あの子」
かすれた声だった。
「ひとりで行くつもり。あたしが止めるってわかってたから、眠らせたの」
高槻が、立ち上がった。
「記念堂に行く」
「私も」
白瀬が、もう扉に向かっていた。
私は、玲奈の肩を支えたまま、2人を見上げた。
「椎名は、黒宮といてくれ」
高槻が言った。
2人の足音が、廊下を遠ざかっていった。
時計塔の階段は、狭かった。
古い石の壁に、冬の冷たさが染みついている。
芽衣は、1段ずつ、声に出さずに数えた。
1、2、3。
子どものころ、玲奈と2人で、声を出して数えた階段だった。
10、11、12。
最後の踊り場だった。
その先に、段はない。鉄の柵が、あるだけだった。
冷たい風が、前髪を揺らした。
下に、記念堂の屋根が見える。その向こうに、大学の明かり。
講義棟の3階に、ひとつだけ、明かりがついていた。
さっきまで、真っ暗だった窓だった。
見つかったんだ、と思った。
ポケットの中で、携帯が震え続けていた。さっき流した文章が、どこかで誰かに読まれている。
芽衣は、携帯の電源を切った。
「13段目」
と柵の上まで登り、腰をかける。
暗く沈んでいく曇り空の下にポツポツと光る家々が広がる。
足元の浮遊感に少し胃が沈むような感覚になる。
違う世界に行くのは、わたしでいい。
息が、上がる。
急ごうとすればするほど酸素が体から抜けるようだ。
狭い螺旋を、高槻が先に駆け上がっていく。白瀬は、壁に手をつきながら、その背中を追った。
上から、風の音がした。
閉まっているはずの場所から、冷たい空気が降りてくる。
最後の角を曲がった。
その先に、鉄の柵があった。
柵の上に、人が座っていた。
こちらに背を向け、両足は柵の向こう側に垂れている。
風が、コートの裾を煽っていた。
「日辻!」
高槻が、踏み出した。
「近づいてこないで」
芽衣が、振り向かずにいう。
柵を握っていた両手から、一つ離す。
体が、ぐらりと前に揺れた。
高槻は、足を止めた。半歩、踏み出したままの形で。
芽衣は、左手一本で、柵の上で足を揺らす。
「……黒宮は、無事だ」
高槻が、声を絞った。
芽衣の肩が、一度だけ下がった。
「よかった」
風の中で、声は小さかった。
「じゃあ、もう、いいね」
「よくない」
白瀬の声が、勝手に出ていた。
「黒宮さん、目を覚まして、最初に言ったの。芽衣を、助けてって」
芽衣の背中が、止まった。
「……起きられるはず、ないのに」
「起きたよ。扉の向こうで、ずっと呼んでた」
風の中で、芽衣が息を呑む音がした。
白瀬は、1段だけ上がった。
「告発文、読んだ。黒宮さんの名前、一回も出てこなかった」
柵を握る指が、ぴくりと動いた。
「全部、自分で背負って、最後は、ひとりで倒れる。幸福な王子だね」
「……そうだよ」
「でも、あの話、王子はひとりじゃないよ」
芽衣は、答えなかった。
「最後まで、ツバメがそばにいた。南へ行けたのに、行かなかった。王子の足元で、凍えて死んだ」
白瀬は、柵の向こうの背中を見た。
「日辻さんがここから落ちたら、黒宮さんが、ツバメになる」
芽衣の肩が、震えた。
「書き換えるの、得意なんでしょ。だったら、この話も、書き換えてよ」
芽衣の片足が、ほんの少し、柵の内側へ引き寄せられた。
靴の爪先が、鉄の横棒に触れる。
けれど、そこで止まった。
芽衣は、自分の足を見下ろしていた。信じられないものを見るみたいに。
「……ずるいよ、白瀬さん」
振り返った顔が、濡れていた。
「そんなこと言われたら、生きたくなっちゃう」
「じゃあ、一緒に生きようよ」
階段の下から、声がした。
最後の角に、玲奈が立っていた。椎名の肩を借りて、壁に手をついて、肩で息をしている。
芽衣の目が、見開かれた。
「……玲奈」
芽衣の体が、声のほうへねじれた。
柵の上に残っていた片手が、鉄の上で、滑った。
高槻が、跳んだ。
芽衣の手首を、掴んだ。
柵の横棒に、高槻の胸が打ちつけられる音がした。芽衣の体が、柵の外にぶら下がる。高槻の腕が、一緒に引きずられていく。包帯の上から、血が滲んだ。
白瀬が、高槻の腕を掴んだ。
私も、掴んだ。
冷たい風で、指がかじかむ。1本ずつ、外れていく。
「離して」
柵の外で、芽衣が言った。
「離して、お願い」
玲奈が、柵に手をついた。
私の手を振りほどいて、身を乗り出した。
そして、芽衣のもう片方の手を、握った。
掴んだ、というより、触れただけだった。
それでも、芽衣の指は、その手を握り返した。
「見つけた」
玲奈が、小さく言った。
4人分の手で、引いた。
芽衣の体が、柵を越えて、踊り場の床に落ちた。
誰も、しばらく何も言わなかった。
息の音だけがした。高槻は、壁にもたれて胸を押さえていた。白瀬は、床に手をついたまま動かなかった。
玲奈と芽衣は、向かい合って座り込んでいた。
手は、まだつながったままだった。
「こんな、バカなこと」
玲奈の声が、震えていた。
「しないで」
芽衣は、唇を噛んだ。
「だって、玲奈は、ずっと苦しそうだった」
「苦しいよ」
玲奈は、すぐに言った。
「今も苦しい。たぶん、これからも苦しい。でも、だからって、違う世界に行きたいわけじゃない」
冷たい風が、柵の向こうから吹き込んでいた。
「あの夜のは、冗談だよ」
「あたし、この世界で、生きたい」
芽衣の目から、涙が落ちた。
「あんたも、一緒に帰るんだよ」
芽衣が、玲奈にしがみついた。
玲奈も、芽衣を抱きしめた。
2人の髪で、同じ黒いリボンが、並んで揺れていた。
13段目は、最初からなかった。
階段の下から、サイレンの音が上ってきた。
芽衣は、玲奈の肩に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「自分で、行く」
誰も、止めなかった。
芽衣は立ち上がって、作業ベストの裾を直した。階段の最初の段に、足をかける。
そこで、一度だけ振り返った。
「玲奈が、待ってるから」
問いかけではなかった。
自分に言い聞かせるような声だった。
玲奈は、頷いた。
芽衣は、12段の階段を、ひとつずつ下りていった。
数える声は、しなかった。
後日、祥桜大学には、七不思議の噂だけが残った。
冷凍庫の中から、叩く音がする。体育館の地下で、赤い靴音がする。理化学館で、水が跳ねる。踊り場の窓が、夕方だけ鏡になる。焼却炉から、声がする。講義棟の開かずの教室で、誰かが眠っている。時計塔の階段を夜中に数えると、13段ある。
誰が最初に書いたのか、もう誰も覚えていない。
それでも、消されるたびに、誰かがまた書き写した。
— 了 —